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2021/2/24 2:33

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キリスト教の地獄と仏教の地獄ですが、

宗教 | 哲学、倫理58閲覧

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

もっとも簡潔でわかりやすかったのでBAです。 他の皆さんも勉強になりました。

お礼日時:2/26 21:36

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約100年前に、ポルトガルのファティマに、聖母マリアが毎月一度現れ、 その中で、3人の子供たちに、地獄のビジョンを見せました。。。 とても怖ろしい、参考になる描写なので、調べてみて下さい。 地下に、広い火の海があり、 悪魔の魂(奇怪な動物の形)も、人間たちの魂(人間の形)も、炎に吹き上げられ、 悲鳴を上げている光景でした。 マリアの説明では、地獄に落ちると永遠に出られないそうです。 日本の仏教では、地獄も、輪廻の六界の一つであり、 地獄から、また別の世界へ転生することもできるという教えです。

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現代の仏教学者の研究によれば釈迦の唱えた仏教には死後の観念はなく、したがって地獄も天国もありません。 地獄とされるのは、この世の煩悩の苦しみであり、天国や仏国土とされるのは生死の苦悩を解脱した至福の境地ニルバーナのことをさします。 仏教も通俗化される中で、地獄や浄土や輪廻転生の観念かうまれました。 面白い事に旧約聖書にも、地獄や天国の観念はあまり見られません。 旧約聖書の一巻にコヘレトというものがありますが 上村静など学者によっては歴史的イエスの思想は黙示思想には批判的で、コヘレトに近いものではなかったかと考えている人もいます。 コヘレトとは伝道の書のことです。 一般にキリスト教徒があまり触れたがらない旧約聖書の一巻です。 なぜなら、コヘレトは死後の世界や黙示思想とは相反する思想で書かれているからです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー コヘレト 死後 コヘレト9:5-6「生きている者は、少なくとも知っている、自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何一つ知らない。 彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれ一つにも、もう何の関わりもない」。 インタビューの中で 上村静は新しい神話が必要であるとことわった上で、イエスの思想はコヘレトに近いところで成立したと評価しています。 黙示思想の二元論が出てきた時代。コヘレトはこの二元論を全否定し、死後の世界への期待を切り捨てた。ユダヤ教の根本を否定した。歴史は反復するのであり、終末というのも存在しないと。コヘレトの有名な言葉に『空の空』というものがある」 「ヘブライ語には無という単語がなかったので『空の空』という表現しか出来ない。コヘレトは『人生には益がない』と言う。『益』とは、儲け、利潤。現代で言うと、金や権力、夢、生きる意味、そういったものをコヘレトは否定した。食事をして妻と共に生きる、それだけを肯定する。自分の命が与えられたものとして、あるという事に気づかず、金や権力、名誉にばかり拘泥するのは虚しいのだと。これがコヘレトの教え。キリスト教は慈善として分け与えをするが、それは上から目線で提供する姿勢。自らが与えられるという発想は希薄だ。」

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聖書に書いてある地獄(ゲヘナ)は、元々は悪魔サタンと悪霊を罰する場所でした。 キリストを信じなかった人々も、そこへ送られますが、「火」と「うじ」によって永遠の苦しみ(神様からの罰)を受ける場所です。 ただ、各自の生前の行いによって罪の重さは違うので、刑罰は一律ではありません。 マタイ25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。 マルコ9:48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。 黙示録20:13~15 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

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仏教は生まれ変わるというのが基本の考え方です。生まれ変わるのですから天国や地獄が現実とかけ離れた所に在ったのでは辻褄(つじつま)が合いません。天国も地獄も現実の世界で見ることができます。例えば金持ちの幸せな家庭に生まれる子供と、貧乏で親から虐待されるような家に生まれる子供、この違いが天国と地獄です。他には平和な国に生まれる子供と戦争が絶えないような国に生まれる子供、この違いも天国と地獄です。天国や地獄は生まれる場所のことなのです。 仏教の地獄絵図は比喩です。地獄絵図には火で焼かれたり身体を切り刻まれたり水責めにされたりしている姿が描かれていますが、爆弾で吹き飛ばされたりタバコの火を押し付けられたりすることとなんら変わりはないと思いませんか。罪人を攻めている鬼は怒り怨み嫉妬に駆られた人間の姿を比喩的に描いたものです。子供を虐待する親や戦争で多くの人を焼き殺し傷ける人間が鬼なのです。 誰かに恨みを抱いたまま死ねば地獄に生まれ鬼となるような生活環境で育ち、恨んでいた人の人生の前に立ちはだかり害をなします。これを悪縁と言います。例えば恨まれていた人が恨んでいた人の子供として生まれたら、親が鬼となり子どもは毎日が地獄です。現実の生活においても恨みや怒りや嫉妬は人間の心を鬼に変えます。鬼とは他人の不幸を願うようになった人間のことです。鬼の住む場所は地獄なので自分の生活が地獄へと変化していきます。それは恨みや怒りや嫉妬は自分が幸せになるための合理的な正しい判断をできなくするからです。したがって「許す」というのは相手のためではなく自分のためなのです。 普通の人間が鬼になるというのは、人間の内面には鬼と仏性の両面を併せ持っているというのが仏教の教えです。仏性とは慈悲のことです。慈悲とは地獄に在る人に救いの手を差し伸べたいと思う気持ちであり、それを実践するのが成仏の道である菩薩行です。ボランティアも困っている人を助けるのも虐待されている子供を救い出すのも菩薩行です。菩薩行を重ねることで仏性がその人の人格となる。それを成仏した、仏に成ったと言います。 人間は生きている内に様々な罪を犯しながら生きています。その中で最も重い罪は恨まれることですが、恨み続けることも相手の不幸を願うようになるので罪となります。天国に生まれるための善行は感謝されることですが、感謝することも善行になります。「ありがとう」と言われることは最も大きな善行ですが、「ありがとうと」と言うことも相手を幸せな気持にすることができるので善行になります。悪行と善行のどちらが多いか、またはどちらが重いかで天国か地獄、又はその中間になるかが決まるようです。 仏教は前世で強い絆で結ばれた相手とは再び出会うとされています。それを縁と言います。感謝されれば良縁となり、生まれ変わっても助け合える存在として出会えますが、恨まれれば悪縁となり、恨んでいる人の人生の障害となるようです。人生に成功し幸せを掴んだ人は人生の節々で支援してくれた人がいたとか、助けてくれる人が現れたという話をします。反対に人生に失敗したり地獄の苦しみを味わっている人は人に裏切られたり騙されたりしたとか、足を引っ張るような人がいたという話を聞きます。これが良縁と悪縁の違いです。縁も因果応報なのです。 閻魔大王はインド仏教ではなく中国で発案されたものです。どのようにして天国と地獄に振り分けられるのかと言うと、あなたは「天網恢恢疎にして漏らさず」といことを聞いたことがありますか。これはその人の一生を天が記憶していて、死んだときに全て報告されるという意味です。年を取るとすることが無くなるので過去の事ばかり思い出すようになりますが、死ぬ直前には全てを思い出すそうです。感謝されたことは楽しい思い出として、反省したことや怨まれたことはつらい思い出として思い出します。 生まれ変わるときは死んでいく時の気持ちと、母親となる女性の気持ちが共鳴した所に生まれるそうです。これを感応妙と言います。感応とは相手が楽しそうにしていればこちらも何となく楽しい気分になり、悲しそうにしていれば悲しい気分になるようなものです。死にゆくときに多くの人に感謝されながら幸せな気持ちのまま死んでゆけば、母親となる女性も多くの人に祝福されながら幸せの中で出産していることになります。反対にだれにも看取られることなく一人寂しく死んでゆけば、母親となる女性も一人寂しく出産していることになります。趣味が同じ人が引き合うように同じ境遇の人どうしが共感し引かれ合うのです。ただ仏教では感応し合うのは人間だけとは限らないと言っています。

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ハリストスや、 爾は神なるによりて 体にて墓にあり たましいにて地獄にあり 右盗とともに天堂にあり 父と聖神と共に宝座にあり 限りなきものとして一切を満て給えり。 チベットの仏教徒に聞いてもそうだと思うんだけど、彼らもどこかに地獄を見ている。 結局あなたの知りえないだろう地獄について話をしても意味がないんですよ。 もし誰も知りえない行ったきりで帰ってこられないところがあるとすれば、それは浄土です。あそこは死後直ちに往生して、そこで必ずニルヴァーナに入るわけだから、絶対に帰ってこられないもの。