本能寺の変でなぜ信長様は護衛をもっと連れてこなかったのですか?

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家康を暗殺する目的のために、家康に自分が丸腰であることをみせるためだと思われます。後年、このことが、家康の脳裏にあり、秀吉の呼び出しを拒絶し、秀吉が自分の母を人質に差し出すまでしてやっと腰を上げたのがわかります。

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織田信忠は美濃の大名なので、 その戦力は、そこから出さないと 他に、いるはずは、なかった。 安土城で織田信長は織田信忠に 徳川家康の畿内旅行に同行せよと 命令したとされるが、それは 合戦支度するには美濃に行って 手勢召集する必要あった。よって 織田信長は毛利との合戦に 織田信忠や徳川家康の加勢を 必要と、していなかったという ことに、なると思います。 だから織田信忠は少ない手勢の、 それも合戦支度の無い集団を 従えていた所作でしょう。よって 織田信忠は本能寺の変の十二日 前に徳川家康ら一行と共に安土城 出て上洛し、その一週間後に 徳川家康は京都を出て堺へ向けて 出動したが織田信忠も予定通り 一緒に堺へ行ってれば 本能寺の変で織田信忠が死ぬ ことは回避できたでしょう。 毛利との合戦に馳せることを 織田信長に命令されてない織田 信忠が何故、織田信長の出馬を 京都で待ち受けていたのか 意味不明です。織田信長も 気まぐれ、で、よく予定通りの 行動を、しない土壇場キャンセル 多い人格でしたが織田信忠の 、そのドタキャンも織田信長の 気分を害しそうなように 思います。

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自家の勢力圏内、いわば自分の庭なんでステテコいっちょで歩いても平気だったんです。 当時の記録を読むと、戦に行くとは思えないくらい緊張感のない物見遊山気分だったことがわかります。 すっかり気持ちが弛緩していたのを狙われたんでしょうね

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本能寺の変時点で、織田信長の勢力は、東は関東まで、西は備中までです。 つまり京都は完全に信長の勢力内であり、安土にも近い庭みたいな場所ですね。しかも信長が1番信頼する明智光秀の軍勢二万が近くにいます。 このような状況で信長じゃなくても同じような行動を取るのではないですか? 例えるなら、武田信玄が甲斐、信州、美濃の一部、三河や駿河の一部を領国とし、諏訪湖畔の温泉にお忍びで行くようなもんです。 多くの護衛を伴うでしょうか? つまり、信長に対抗する勢力の軍勢に襲われるような可能性はゼロだったんですよ。 なぜ信長は少人数で本能寺に滞在するという愚かな行動を取ったのか?結果を知る現代人はそう思うでしょうが、信長が油断したとかじゃなく、信長じゃなくても同じだったはずです。 まさか評価、信頼が1番の家臣が自分を襲うなんて思ってなかったはず。 なので「是非もなし」となったんですよね。