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中国分割には、3つの理由+1があります。 “+1”とは当たり前ですが、“中国の近代化への立ち後れと、政治体制の古さ”という、清の弱みです。 そして3つの理由とは列強(列び立つ強国)の、①領土拡張、②利権や市場の獲得、③地政学的(地理と結びついた軍事上の関心)な対抗進出です。 簡単に言えばソレだけですが、念のため、少し詳しく、以下書いて見ます(^^)/ まず、ロシア! ロシアにとっては、①領土を南に押し下げる(南下政策)場面で、衰退する清が、格好の“突破口(英国に邪魔されない)”であったこと。 ※ 中国でのロシアの南下:ロシアのシベリア進出で、ネルチンスク条約(1689年) が結ばれるが、ロシアは黒竜江左岸を確保。その後のアロー戦争では北京条約(1860年)で、沿海州の領有を認めさせた。これでロシアの領土は日本海岸に到達。不凍港ウラジオストクを建設(1871年)して満州や朝鮮半島への南下を窺い、日本との緊張関係を高める。そして日清戦争後の“三国干渉”で、旅順・大連の“租借”に成功(1898年)。シベリア鉄道の支線として清に圧力をかけ、満州を横断する“東清鉄道(日露戦争後の満鉄など)”建設(1903年完成)を認めさせる。 ②利権や市場の獲得については、清が列強にとって、“余りにも美味しすぎる市場”であったコトです。 ※ 市場としての中国:アヘン戦争(1840~'42年)前の1820年、清が世界のGDPの約1/3を占めていたという推定があります(この段階で米国は、2㌫弱)。既に産業革命を経験している英仏等の列強に対し、何故そこまで清のソレが高いかというと、人口の多さがGDPを引き上げたのです。 英国やフランスは、綿製品を初めとした“工業製品”の市場として清に価値を認めたのです。 そしてアロー戦争後は、北京の外港・天津の開港や“宣教師の布教”まで認めた清でしたが、人口から生まれる経済力は大きく、“大国”としての威厳(“眠れる獅子”)はまだ存続! そしてその威厳が見事に打ち砕かれたのが、日清戦争に依る敗北(1894~'95年)でしたよね。 教科書的には、日本への“台湾などの割譲(下関条約)”が、“中国分割”の第1号。 これに対して、③“地政学的な対抗進出”を真っ先にやったのが、“三国干渉(露仏独国)”による圧力をかけたロシアで、日本の“遼東半島放棄”後に、旅順大連を“租借”。 そして旅順の軍港化と、清国内を走る東清鉄道の建設で、ウラジオストクと半島を結び、更なる南下を窺うのでした。 ココまで③は、ロシアと日本がゲームプレーヤーです。 しかしココから、英国と対抗しようと、“世界政策(世界各地に植民地獲得!)”を掲げる新興国・ドイツ帝国と、20世紀初頭に“工業生産力”で英国を抜いた米国が参入。 ドイツが膠州湾を占領して“租借(1898年)”すると、堰を切ったように列強は次々と各地を“租借”。 ※ 1898年の“租借”の嵐:ロシアの大連“租借”。英国は威海衛(膠州湾の反対位置)や香港の“新界”。東南アジアに植民地(仏領インドシナ:ベトナム・カンボジア・ラオス)を形成していたフランスは、対抗して広州湾を“租借”。 そこで日本も遅れてですが、清滅亡後の袁世凱政権に対して、“21箇条の要求”で“ドイツの山東省権益の継承と、(列強への今後の)沿岸不割譲”を認めさせましたよね。 こんなんでどうですか(^^)/
質問者からのお礼コメント
めちゃくちゃ分かりやすかったです
お礼日時:3/2 11:34