廣松渉は「世界に客観的実在は存在しない。 すべての事実は共同主観的な幻想である」と主張しましたが、 この思想は唯識仏教由来でしょうか?

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唯識哲学と廣松哲学 https://kokuhiken.exblog.jp/24679638/ 唯識についてだが、「唯識」は「物に対して心だけ」とか「物質に対して精神だけ」という観念論というよりも、「人間にとって世界が展開する場は(深層心理を含む)意識」という哲学だと考える。認識主体にとって「物質」は五感や思考の対象としてしか現前しないと。その上で近代哲学と違い「物自体」を否定する(このあたりは大森荘蔵氏の「立ち現われ一元論」にも通じていると思う)。 ※ 唯識を考える上で参考になりそうなのが量子力学のコペンハーゲン解釈である 引用:量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測すると観測値に対応する状態に変化すると解釈する。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88 次に廣松渉の「事的世界観」を自分が理解した範囲で述べる。主観と客観がそれ自体でまず存在し、それから認識関係に入る、というより「所与が所識として能識としての能知に対してある」という関係性(縁起)があり、その関係の「項」として主観や客観が存在し、独存はしていない。この関係を「事」と呼ぶ。実体としての物=モノの集積として世界を捉えるのではなく、モノに関係性が先立ち、関係性を待って「項」たるモノが規定されてくる四肢的構造連関として世界を捉えるわけである。 廣松渉四肢的構造連関「所与が所識として能識としての能知に対してある」について。感性で捉えた所与(視覚や触覚等)に知性で言葉を当てはめることで概念的に認識(所識)。そして知性(場合によっては感性も)はその認識主体(能知)が属する文化共同体のあり方で規定(能識:例 日本語を使う主体)この「所与が所識として能識としての能知に対してある」を具体的に「私はリンゴを見る」という事で言うと。知覚的に現前する赤い、ざらざらした、まるいそれ(所与)を、日本語の名詞「リンゴ」(所識)として、日本語を使用する主体(能識)として自己形成を遂げている、特定の誰某(能知)が認識する。となると思う。 事的世界観とは、「実体に関係が先立つ」という世界観である。言い替えると縁起的世界観である。「実体に関係が先立つ」と言っても時間的に関係が実体に先立つというより、関係の項である「実体」(モノ)は、関係無くしては存立しえない、という不可避の構造を指している。関係=事の基底性の指摘。 仏教学者の竹村牧男氏の華厳仏教の解説で「仏教は事的世界観」という言葉が出てきて妙に心に残った。世界を実体的な「物」の集まりではなく、縁起的・関係的に成立する「事」の世界と捉える世界観である。西洋の実体思想に対置される。その後ズバリ「事的世界観」を掲げる廣松哲学を知り興味を持った。廣松哲学の四肢的構造連関は主観と客観が其々二肢に分かれていて、しかも相互に連関し其々の「項」は関係的に成立し、独存していない、という縁起的な世界観である。現相世界(現象世界)は全て四肢的構造連関において成立する総世界的連関体である、というのは華厳の重々無尽の縁起思想に酷似する。 唯識哲学と廣松哲学の対比。①見分と相分からなる識≒其々二肢的な主観と客観の「項」からなる現相世界。②見分も相分も依他起(縁起)なもの≒主観も客観も四肢的構造連関の「項」としてのみ存在し独存しない。③見分及び相分を実体と見るのは遍計所執性≒「項」を「実体」と見るのは「物象化的錯視」④見分(主観)も相分(客観)も「自体分(識の本体という意味だが「実体」ではない」が分かれたもの≒能所(主観と客観)の渾然一体性。➄全ては阿頼耶識に依る≒認識は「世界が世界を認識する」総世界的連関体。類似点と思う部分を思い付くまま挙げてみたが➄は現代人的には廣松の方が説得的だろう。 「世界が世界を認識する」総世界的連関体、を補足。例えば脳が機能するには人体のみならず外部環境から栄養素を取り入れないといけないように、蛇口から水が出るには水道システムが総体として機能していないといけないように、一つの認識が成立する為には、総世界的な連関システムが機能するという意。この廣松哲学の、「世界が世界を認識する」総世界的連関体、という考え方が非常に華厳的だと思った。「無限の縁起的関係性」を説く華厳思想と、認識の「総世界的連関体」を指摘する廣松哲学は、かなり酷似しているのではないか?と感じる。縁起・無自性・空が基本の華厳と実体概念の破棄を唱える廣松哲学。 廣松渉は政治的には新左翼のイデオローグだったが、哲学者としては極めて仏教的な「事的世界観」を唱えた人物。この哲学が素朴唯物論のマルキストに受け入れられたかは謎である。むしろ仏教側こそもっと注目していい哲学者だと思うのである。認識論としての唯識を現代的に補完する哲学だと思うのだが。 事的世界観という事で言えば、仏教で言うと華厳の事事無礙法界という思想がそうである。儒学では伊藤仁斎に代表される「一元気論」あるいは「気一元論」もそうである。本居国学も前二者とはニュアンスは多少異なるものの、文献実証主義に基づく事的世界観。日本思想の真髄=事的世界観ではと考える。 神道・儒教・仏教即ち神儒仏全てに「事的世界観」がある。道教も日本に大なり小なり影響を与えているが、道教は荘子がそうであるように「気」という質料で万有が生成される、という気一元論である。こうなると、神儒仏道全ての共通点は「事的世界観」では?という気がしてくる。といっても、神儒仏道全てが事的世界観で尽くされるわけではもちろんないが。例えば、朱子学は気より理を重視するので事的世界観とは言えない。神道の平田派系、仏教の日蓮系(事の一念三千とは言うものの久遠本仏という理念体を信仰する)は事的世界観とは言い難いだろう。