織田信長の甲州征伐の際 武田勝頼が新府城で戦わず同城を自ら燃やしたのは何故ですか?

日本史28閲覧

ベストアンサー

1

1人がナイス!しています

その他の回答(2件)

0

『当代記』に依ると、天正十(1582)年一月二十五日、信濃国木曾郡の武田一門衆:木曾義昌が織田氏に内通しました。 『甲乱記』に依ると、その第一報が新府城に入ったのは、一月二十七日払暁のことだとされます。 武田勝頼は、翌一月二十八日、武田信豊を主将に三千余が信濃国府中(深志)方面から木曾谷を目指し、これを支援する部隊として仁科信盛を主将に二千余が上伊那口から木曾谷を目指すとして出陣させました。 二月一日、木曾義昌は苗木遠山友忠を介して、援軍を岐阜城の織田信忠に要請、信忠から安土城の信長に要請内容が届きました。 信長は、義昌から人質を取ることを指示し、信濃・美濃国境の軍勢を派遣することにしました。 二月二日、武田勝頼は一万五千余の軍勢を率いて新府城を出陣し諏訪上原城に到着しました。 そしてこの日、場所は定かでありませんが、武田軍と木曾軍が衝突し、戦いは木曾軍が優勢だったようです。 二月三日、織田信長は武田領国侵攻の指示を各方面に出しました。 二月十六日、下伊那口の崩壊が伝えられるなか、武田勝頼は諏訪上原城から塩尻に陣を進め、今福昌和を大将として三千余が奈良井から鳥居峠に向かいましたが、地の利を活かした木曾軍に敗れてしまいました。 『信長公記』に依ると、この戦いには苗木遠山友忠・友政父子が加わっていたとなります。 二月十九日、諏訪上原城にいた武田勝頼は駿河国江尻城城代武田一門衆:穴山梅雪の謀反を知って、甲斐に帰りました。 二月二十八日、武田勝頼は新府城に到着しましたが、『信長公記』『甲乱記』に依ると、付き従っていた手勢は千人足らずと言います。 三月一日、武田勝頼は新府城下の躍踊原で木曾義昌の人質三人、嫡男:千太郎、老母、千太郎姉を処刑しました。 三月二日、『甲乱記』に依ると、武田勝頼は跡部勝資の進言を受けて甲斐国都留郡に退くことを決定するとあります。 『甲陽軍鑑』に依ると、武田勝頼の嫡男:信勝が新府城での籠城を主張し、真田昌幸が上野国岩櫃城での籠城を主張、さらに小山田信茂が甲斐国都留郡の岩殿城へ落ち延びるように主張しました。 そして、長坂釣閑斎が小山田氏を支持し、武田勝頼たちは岩殿城に行くことになりました。 翌三日払暁、新府城に火を放って、岩殿城に向かいました。 武田勝頼は、新府城を織田方に渡したくなかったのでしょう。

1

籠城しても、城を守り切れるほどの兵が、 手元に残っていなかったからです。 新府城ほどの大城塞であれば、一万近い軍勢で、 守りを固めなければならなかったわけですが、 連戦連敗で、多くの兵が四散してしまい、 勝頼の手許には、僅かな手勢しか残っていないから、 せっかくの巨城は無用の長物と化したのです。

1人がナイス!しています