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私は理系高校生です。 古文と漢文を勉強する意味が少しも分かりません。

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毎年何度も同じ質問をする人がいるので、 以前に何回か回答したものを、 いくつかそのままコピペします。 内容が重複しているものもありますが、 ご容赦を。 ○古文について イギリスでは小学生からシェイクスピアを 原文で勉強するそうです。 シェイクスピアは徳川家康と同時代の人ですから、 日本で言えば古文に相当します。 シェイクスピアがわからないイギリス人や ギリシャ神話を知らないギリシャ人は あまり尊敬できないでしょう。 日本人で源氏物語・枕草子・方丈記などを 知らない・わからないということは、 そういうことだと思います。 本当は、日本の神話である古事記も 知っておいた方がいのですが、 これには政治がからみますから、 学校で教えるのは難しいでしょう。 ○漢文について キリスト教文化圏のヨーロッパでは 宗教・学問・芸術でラテン語が使われていて、 ラテン語が語源の言葉も多く、 現在でも学生たちはラテン語を勉強するそうです。 東アジアの儒教文化圏では、漢文が ヨーロッパのラテン語に相当します。 洋の東西を問わず、教養のある人は、 自分が属する文化の古典を学んでいます。 それから、漢文は、もともとは中国大陸の文献で 外国のものだから勉強する必要はないという人います。 しかし、高校で学ぶのは漢文訓読という日本独自の文化です。 漢文を外国語として読むのではなく、 書き下すことで、頭の中で古文に翻訳しながら読む技術です。 日本人は漢籍を輸入して学び、訓読法を確立することで、 政治・哲学・宗教・科学・文学・芸術など、 あらゆる分野で漢文を使って日本文化を形成してきました。 古文と漢文が日本文化の両輪ということになります。 ○アイデンティティ ところで、自分が自分だという感覚は記憶で成り立っています。 記憶喪失になると、私はだれ?ここはどこ? ということになります。 日本人としてのアイデンティティを構成する 個人にとっての記憶に相当するものが、 古文漢文と日本史の知識だと思います。 古文漢文と日本史を知らないと、 日本人って何?日本って何? という状態になってしまいます。 日本人同士だと、あらためて「日本とは?」なんて 考えることは少ないので、あまり気になりませんが、 外国人に日本のことを聞かれたとき、 何も答えられないということになります。 これは、個人で言えば記憶喪失で、 自分のことがわからないのと同じです。 ネットが普及して、家にいて外国の文化に 簡単に触れられる時代ですし、 自分の国の文化についても ちゃんと知っておいた方が良いだろうと思います。 国際社会で、他国から尊敬される国というのは、 やはり、イギリスなど、歴史と伝統が しっかりしている国だと思います。 古典の教養が無くても、生きていくだけならできますし、 そういう生き方をするのも個人の自由ですが、 国単位でいえば、日本の伝統文化を守っていくためには、 高校での古典教育で国民全体の教養レベルを保つことは とても大切だろうと思います。 ○役に立つかどうか 古文漢文でよくでてくる儒教・老荘思想・仏教は、 大人になって生きていくうえで、 苦しい時や迷ったときに、 考え方の指針として、とても役に立つものです。 よく古典は役に立たないという人がいますが、 古典は、勝手に役立ってくれるものではなく、 自分で役に立てるものです。 古典が役に立たないという人は 古典が役に立つような生き方をしていないだけです。 高校の時に、これらの思想について 基礎的なことを一通り勉強しておくと、 将来、興味が出てきたときに、 自力で吸収できます。 ○古典の必要性について 個人のアイデンティは記憶によって得られます。 記憶喪失になったら、私は誰?ここは何処? という状態で、自分がわかりません。 日本人としてのアイデンティをもたらす、 個人の記憶に相当する、日本人としての記憶が、 古典と日本史の教養です。 国際性には語学力があった方が良いのは当然ですが、 語学力があったとして、何を話すか、内容が重要です。 英語ができても、くだらない話しかできなければ、 国際性以前の問題になります。 よく、外国に行ってはじめて日本のことがわかると言われます。 それは、日本人同士では 「日本ってどういう国?日本人ってどういう民族?」 とは聞かれないからです。でも外国人には聞かれます。 それではじめて日本について知ろうとする人も多いわけです。 そのとき学ぶべきものが古典と日本史です。 五千円札にのってる新渡戸稲造は、 アメリカで「武士道」という本を出版して日本文化を 海外の人に紹介しました。 「武士道」は、アメリカの大統領など 著名な欧米人に感銘を与えたということです。 新渡戸稲造が「武士道」を書けたのは、 古典の教養があったからです。 これが本当の意味での国際性ということでしょう。 日本人は、古来、政治・哲学・宗教・医学・数学・農業など あらゆる分野で漢文を使ってきました。 日本文化は、古文と漢文の両輪で形成されてきました。 明治維新では吉田松陰が「孟子」の思想をもとに弟子たちを教育し、 高杉晋作などを育てています。 「孟子」と水戸藩の国学が明治維新の思想的原動力の両輪でした。 漢文の文化が無ければ明治維新も 近代日本もなかったかもしれません。 さらに、第二次世界大戦終戦まで漢文訓読調の文章が普通でした。 明治憲法も、終戦の詔勅も、漢文訓読調で書かれています。 夏目漱石の文章は漢籍の語彙が沢山使われています。 これらは漢文を習っていれば簡単に読めますが、 漢文を知らないと読めません。 漢文を習っていないと、わずか70年ほど前の文章も 読めないということになります。 ○面白さについて 漢文の面白さというと、一つは、 パズルのような面白さです。 難解な漢文を読解できたときというのは ピースが全部はまって、全体がはっきり見える、 パズルが解けたような感覚ですね。 もう一つは、考え方の面白さがあります。 なるほど、こういう考え方があるのか、 というふうに感心することが結構あります。 あとは、個人の趣味趣向によりますが、 和歌や漢詩など、詩心を理解できる教養は あったほうが人生を豊かにできるだろうと思います。

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確か遊川秀樹博士だったと思いますが、『方丈記』を読んでいて中間子理論を思い付いたという話があります。必要最小限のことしか学んでいない人間よりも、幅広い教養を身に付けている人間の方が、学問の世界ては大成するんじゃないでしょうか。 まあ、どうしても嫌だというのであれば、国公立の受験を諦めて、私立理系に進学するとよいかと思います。

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アインシュタインは大学のスイスの名門大学の入試で数学と物理がトップだったのに、古典だけ落第点で、総合評価が不合格だったのに、大学当局ももったいないと思ったのか、入学後に古典を勉強し直すことを条件に入学を許可されたそうですね。 日本の場合はそういう融通が効かないので、理系なのに国語や英語、社会科目まで入試科目にある大学はアインシュタインを落としていたでしょう。ただし、戦前の高等学校はほぼ自動的に帝国大学に進学できたので余り勉強せず、事実上の入試は中学四年修了時に受ける高等学校入試だけ、それも知能優秀な受験生は一年間だけの入試勉強で高等学校に入学できたので、実質的な受験勉強は事実上一年だけで、あとは学校の授業で広く基礎教養を身につけるといった指導法が採られていた。 しかも旧制中学の進学率は数%に過ぎないので、もともと優秀な子ばかりで、さほど勉強しなくても田舎の帝国大学なら進学できたというのが実情でしょう。戦後の日本の自然科学系のノーベル賞の受賞者はほとんど旧制高校から帝大に進んだか、戦後の出身者もほとんど地方の旧帝大の出身者ですね。戦前は帝国大学が理工医系、法学系、私立大学が金のかからない法学系と棲み分けがほぼ決まっていた。今の私立有名大学はほとんど法律学校が母体です。 古文と漢文は確かに自然科学とは直接の関係がない。近代数学と物理学を発展させたニュートンは、自然科学は宇宙の半分を解き明かすことはできても、もう半分は分からない。と、自然科学の限界をよく認識していた。正直言って今は漢文は要らないと思います。漢籍の教養は政治学を学ぶためには有益かもしれないが、直接人生を潤す学問ではない。中国の聖人で偉い人は孔子だけで、他にはロクな思想家が出ていない。孔子を読むなら学校の授業は要らない。むしろ有害である。はっきり言うが漢文を教えている教師は素人同然の人が多い(もちろん例外はあるが)。古文も同様である。 だから漢文や古文の勉強は受験科目にあったら仕方がないと割り切ってやるしか無い。しかし理系の古文漢文はもちろんレベルが低い。旧制の中学のほうが遥かにレベルが高い。どんぐリの背比べの中で少しだけ浮き出ればいいと考えて気楽にやればいい。 ただ、多少とも興味を憶えた物があれば、大学入学後もときどき繙けば、社会に出たときに必ず経験するいろいろな悩みを解決する目安にはなると思います。昔から人が経験してきたこと、思ったことを語るのが。古文であり漢文だからです。

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仕事をする上で必須か?と言われれば全然必須じゃないです。 生きていく上で知識があった方がいいか?と言われれば、あった方がいいです。 ▼教養があると楽しめるという例 鴨川沿いで友人が「をんなありけり」と語り出した… https://togetter.com/li/1468995

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バケガク勉強してる方? 「舎密開宗」という本があります。江戸時代の化学の教科書。 蘭学では化学が抜きん出て進歩していました。化学という言葉はまだなくて chemi=せいみ=舎密 と転じて舎密学、と呼ばれてました。 恐らく大学図書館にあります。カラーの版本。すっげー面白い。 エタノールの精製方法が載ってるんですよ。え?蒸留して脱水用の石灰入れりゃ良いだろうって?甘い甘い。発酵法で造る(作る、じゃないよ)とき、焼酎の中にはエチルアルコールだけじゃない有機化合物が含まれているでしょ?これを除く方法が載ってる。 意味あるかって?工業化学じゃ使うか分かりません。私の農芸化学ですら使いません。でも知ってればいつか使う日が来る、かも知れない。 つまらないと思います?これがつまるんだ。知らないことを知っているというのは希少価値です。大学の同期500人くらいで、たった一人知っている。これは武器だ。 ファラデーが貴族の前で電気の実験をして見せたとき貴族が「これは何の役に立つのかね?」と聞いた逸話を知ってますか? ファラデー卿は「私にも分かりません。しかしあなた方は、これに税金を掛けるようになるでしょう。」と答えたとか何とか。 ファラデー卿の卓見を見習おうじゃないか。 舎密開宗以外にも和漢三才図会なんてのもある。こっちは百科事典だ。何が書いてあるかは伏せる。 これらは平易な文語だが古文の素養がないと読むことができません。 方丈記を読んで泣けと言っているわけじゃない。たかが学士で専攻にこだわり、先鋭化することを戒めているんです。 私は明治だが中学時代の親友は東大を出て京大理学部教授をやってる。彼から厨房のとき教わったのは諸子百家だ。建築士をやってる今でも老子は役に立っていますよ。 数学は論理的思考を養いますが、国語は全ての学問の基礎「言語」を扱います。 粗末にしちゃだめよ。

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