徳川家康は、朝廷から征夷大将軍に任命されて、江戸幕府を開きました。

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長く続いた箔づけ機関がないと、中国などのように王朝制になるが正統性が無くなる。日本人は何故か古いものを尊重する性質があり、天皇は、長いだけで江戸幕府初期には実力(兵力)が全くないという意味で、最適だった。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました! わかりやすかったです。

お礼日時:5/12 20:58

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「権門体制論」という学説があります。中世は、公家権門、武家権門、宗教権門が三つ巴になり対立しながらも相互に助け合っていた社会だとする者です。 朝廷と幕府は対立もしますが、お互いに助け合う関係でもあります。 南北朝の動乱以降、朝廷は幕府に養ってもらわないと存続すらできなくなります。その代わりに幕府の支配に正統性を与えていました。 その室町幕府が実質的に崩壊すると、朝廷は貧窮し、恥も外聞もかなぐり捨ててひたすら強者に媚びへつらって施しを得ていました。 その潔いほどの卑屈な態度は、逆に公正な天下人認定機関と認識されるようになったのです。 そして、秀吉の死と関ヶ原合戦で、世の中の移ろいを敏感に嗅ぎ取った朝廷は、尻尾を振って家康のの尻の穴を舐めてご機嫌取りをしたのです。

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実質、明治時代から江戸幕府と言う言い方が出来た。当時は幕府と征夷大将軍は無関係。 源頼朝が武家政権作ったのに見習ったと思われている。 頼朝は将軍職を実質継承した。本当は都度朝廷が任命する臨時職。 鎌倉時代は公武二元政治と言われるように、支配領地争っている。徐々に増え、元寇の後にほぼ武家一元政権実現した。 鎌倉幕府成立を元寇の後とする説も強い。

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朝廷と幕府は権力を奪い合う関係でもあるけど、もちつもたれるの関係でもあると思う。 もし朝廷が征夷大将軍に任命しないなら、家康は朝廷無視で独自に王となり、つまり朝敵となって、朝廷を討伐することになる。 それは両者にとって良いことではない。 朝廷が自分を支持し征夷大将軍とすれば、幕府は朝廷を保護する。そういう均衡点が自然にできたのだと思う。

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ライバルとみる公武対立史観は古い古い史観です。 源頼朝は、御家人達に「荘園の年貢を都へお届けしろ!」と厳命し、これは鎌倉幕府の基本政策となっています。 鎌倉幕府によって荘園制度は全盛期を迎えて京都は繁栄したのです。 だから、承久の乱の際も、朝廷の主流の世論は「幕府に任せた方が上手くいく。」「やれやれ困った上皇様だ。北条泰時はいい奴だが。」 であり、建武の新政でも似たモノでした。 家康が、「征夷大将軍」を欲したのは、これが「源頼朝の後継者」を意味するモノになっていたからです。 そして、歴代の徳川の将軍によって、「上の中か上の下」のくらいの官職だった征夷大将軍が、「武家のトップは征夷大将軍」というイメージにできあがりました。 江戸時代以前は関白の方がずっとエラいので、豊臣秀吉はこれで満足していたのですが。

武家政権にとっての朝廷のありがたさは、 「徳川家康は征夷大将軍。日本で一番正しい武士だ。」 と保障してくれたこと。 武家政権のパワーの源は1にも2にも土地なのですが、土地は「正しさ」を保障できません。保障できるのは朝廷だけでした。

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>朝廷と幕府というのは、長年権力争いをしているライバルであると解釈しているのですが その認識が間違いです。 朝廷の長い歴史で幕府と権力争いと呼べるものがあったのは承久の乱、建武の新政、幕末ぐらいでしかありません。 基本的に武力と実権は幕府が握り、それに朝廷が権威を与えるというのが、幕府政治の実態です。