愛に満ち溢れているはずのキリスト教の神は、(地獄が存在すると仮定して)地獄で人々が苦しんでいることに何も感じない?

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何も感じないでしょう。何しろ聖書の神は、敬虔な信者ヨブを苛め抜き、その子供を殺しても、なんとも思わないのですから。

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こんにちは。「tyran」です。 「地獄」を主観的にどう思うのか、客観的にどう思うのか? 「地獄」にも門があり、「天国」にも門がある。 「地獄の門」は、地獄を好み地獄を作り、多くの人々に「苦痛」を与え、自らの「罪」を増やす者を受け入れます。 「地獄」は、堕とされるのではなく、自分から進んで好み「地獄の門」を叩いて入って行くのです。 「麻薬」を好み「麻薬」に溺れたい人間は、「麻薬」を好きなだけ体に入れられる世界を好みます。「人殺し」を好む人間は、どこまでも人間を殺し続けられる世界を好みます。 人間が「生きる道」を考えた時、どの様に自己選択して生きるかは、その人物の「自己責任」です。つまり「生きるも自己責任・死ぬも、死後の世界も自己責任」なのです! 「天国の門」に関しては、誰でも入れるわけではなく、「門前」で、生前の「罪」を悔い改めて、涙ながらに「反省」出来た人間だけが、「天国の門」を開けてもらい、「天の都」に暮らすことが出来ます。 「汝、悔い改めよ」は、他ならぬ「本人のため」にある言葉で、「反省」や「感謝」「ゆるす心」は、「天国の門」の「カギ」なのです! 「天の父:神様」の大愛は平等であり、誰の上にも「太陽の光」のように、分け隔てなく注がれております!勿論「地獄」まで届いております。 しかし、「愛の光」を嫌う人間は、その「光」を感じ取ることが出来ないのです!自分にも届いている「暖かい光」は、「暗闇」を好む人間達にとって「うざい光」なのかもしれません。 しかし「地獄」に暮らしていようとも、「いがみ合いの日々」に嫌気がさして、「天」を仰ぎ、「愛の光」に気付ければ、その人物の目の前には「天国の門」まで続く階段が現れます! 後は、その「天国の門」まで続いている階段を、本人が上るのか上らないのかだけです。決めるのは本人自身。永遠に降り注がれ続けている「愛の光」、人生にて、その温かい光に気付かれて「天」へと意識を向けられ生きて行かれることです。 人類全員に、救いのチャンスも平等に用意されているのです。 以上です。 ありがとうございました。