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2021/6/15 0:39

44回答

『プライベートライアン』の冒頭でノルマンディーの上陸があると思いますが、何であんなに不利な状況で上陸しないといけなかったのでしょうか?

補足

あと何故末っ子だけ親元に返す決断をしたのですか?

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ところで、戦争映画好きな人ってみんな語りたがりだよね。 プライベートライアンの疑問を解決するためにフランスのその後まで語っちゃうのは笑った。

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歴史として、あるいは軍事的に知りたいのであれば「史上最大の作戦」を観た方がよいですねえ。 まあ、欧米人にとっては、ノルマンディー作戦は日本人が関ヶ原の様相をよく知ってるように一般常識ですから、プライベートライアンでは説明を省いていたんですけど、「史上最大の作戦」は経緯を説明していますし、オマハビーチだけが苦戦していたわけでもないと判りますよ。 オマハビーチは、源平合戦でいえば鵯越みたいなものでして、絵柄が劇的になるのでことさらにクローズアップされるっていう図式ですよ。 別の角度から説明をしますと、もっとも海峡が狭いカレーに上陸してくるという見立てがもっぱらであり、また天候が悪化していたので、まさかノルマンディーに条件の悪い中、殴り込みをかけてくるとは思っておらず、また威力偵察の可能性もあったので(実際に陽動も仕掛けていました)、本格反抗を意図させるまでなかなか至らず、それ故に「オマハビーチ以外はまだ楽だった」ともいえるんです。 下の回答者さんのご解説は正しいのですが、それでもドイツ軍は土壇場での機甲師団の投入に成功していますし、ヒトラーを起こせなかったのも事実ですが、そもそもが連合軍の着上陸戦を想定して臨戦態勢に入っていたわけですし。 >何故末っ子だけ親元に返す決断 当たり前ですが、アメリカは戦時中であっても民主主義が機能しており、つまり”国家の主人”である国民を政府は最大限に大事にしなくちゃならんのですよ。 だから、軍事行動も議会や大統領府、そして世論の動向が強く影響しています。 日本やドイツとはまったく違うわけですよ(もっとも日本でも無茶な対米開戦するまで、召集はできるだけ家族の中から一人だけってのが不文律でしたけどね)。 このあたりのアメリカの国情と国民性は「父親たちの星条旗」で描かれていますよ

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フランスは第二次世界大戦に開戦時から参加していました。 しかしその大戦初期においてヒトラーのドイツ軍に敗れ降伏してしまいました。 その為に西ヨーロッパ大陸では、一応中立のスペインらのイベリア半島を除けば完全にドイツの勢力圏となっていました。 1940年6月23日 フランスはドイツに降伏しました。 1943年 7月10日 アメリカ・イギリス主力の連合軍がイタリア半島先端対岸のシシリー島へ上陸し侵攻。 更に 9月9日 連合軍はイタリア本土に上陸し侵攻。 しかしイタリアを占拠・掌握したドイツ軍は地形を利用して激しく抵抗し、 このイタリア戦線が完全に突破されるのは、1945年のドイツの降伏の少し前となります。 そして 1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦が行われました。 つまり、 フランスは約4年間に渡りドイツ軍に占領状態に置かれていました。 連合軍は西ヨーロッパから完全に追い出されてしまっていたのです。 そして当然ドイツはその間にそれなりに防御態勢を整えていました。 ですから リスクはありますが、多くの部隊を上陸させる海岸部があるフランスのノルマンディー海岸へと強襲作戦となりますが大作戦を行ったのです。 ちなみに 干満潮・地形・補給物資を輸送するの港などの条件面から言えばノルマンディー海岸は決してベストな場所ではありませんでした。 (概略) (1939年) 9月1日 ヒトラーのドイツはソビエトと秘密協定を結んだ上で隣国のポーランドに侵攻しました。 ポーランドは中世の時代から続く陸軍の大国でした。 ところが軍の装備と戦術の近代化に成功したドイツに対して、ポーランドは軍の近代化が遅れていました。 更に ポーランド西部から侵攻したドイツ軍に呼応して、ドイツと秘密協定を結んでいたソビエト軍までもポーランド東部から侵攻した為に大国ポーランドは瞬く間に崩壊しその国土はドイツとソビエトにより東西に分割占領されてしまいました。 そしてポーランドは第二次世界大戦が終了するまで国家としては消滅する事になりました。 また、 9月1日にドイツがポーランドに侵攻した時点でイギリス、フランスはドイツに対して「宣戦布告」を行いました。 ですからこの時点でイギリスとフランス共和国は第二次世界大戦に参戦したのです。 しかし、 イギリスとフランスからはドイツをは挟んで反対にあるポーランドへの援助・支援は簡単では無く、結局は何もできないままポーランドは降伏・消滅してしまいました。 そしてその後、 「宣戦布告」を行ったものの、実際にはドイツとイギリス・フランス間では約6か月の間に大規模な戦闘は起こっていませんでした。 そしてこの間の小康状態は「奇妙な戦争」、「まやかし戦争」などと呼ばれました。 ところが (1940年) 4月 ドイツはデンマークとノルウェーに侵攻を開始し瞬く間に両国を降伏させました。 5月 ドイツはオランダ・ベルギーに侵攻を開始しオランダは瞬く間に降伏。 一方ベルギーは第1次世界大戦での大きな犠牲が出た為にその後に「中立国家」を宣言していました。 しかしその為に危機が迫っといるとはわかっていてもイギリス軍とフランス軍の援軍がベルギー国内に駐屯できませんでした。 またフランスへの進撃路であるベルギーに対してドイツはその「中立国家」などは関係なく進攻開始しました。 一旦開戦となった以上イギリス軍とフランス軍はベルギー国内に入り、ベルギー具と共にドイツ軍と交戦状態に入りました。 第1次世界大戦時はこの同じような状態から終戦時まで泥沼の膠着状態となったのでした。 ところが、 ドイツ側はマンシュタインという天才的な参謀がイギリス軍とフランス軍の意表を突く作戦を考え出していたのです。 当時はドイツ・フランス国境付近には「マジノ要塞」という難攻不落の大要塞地帯が築かれていました。 更にフランス北東部には「アルデンヌの森」と呼ばれる大森林地帯が広がっていました。 そしてその大森林地帯を大規模な部隊が進撃するのは不可能であると思われていました。 その為に従来の対フランス作戦はその要塞が伸びきっていないベルギー国に攻め込んでからフランス北部へと進撃するというルートに限定されてしまっていました。 しかし 彼は連合軍の意表をついてドイツ軍主力部隊に「アルデンヌの森」を突破させてフランス北部に侵入させ、そのままフランス北部を横断してイギリス海峡まで進撃させて、ベルギーやフランス北部のイギリス・フランス軍主力を包囲してしまおうという大胆な作戦案を作り上げていたのです。 そしてこの作戦が大成功を収めました。 イギリス・フランス軍の連合軍は包囲されてフランス中南部から遮断され、西へ西へと後退し『ダンケルク』へと追い詰められて行ったのです。 5月26日 イギリス軍は『ダイナモ作戦』を発動。 その結果、イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名がイギリスへと救出されたのです。 しかしこの時点で連合軍は61個師団が壊滅していました。 残りの49個師団はそれよりも質が劣っている部隊でした。 この時点で 対フランス戦の結末は明らかだったのです。 そして軍の近代化に遅れていたフランス軍は混乱を続けドイツ軍の攻勢にもろくも崩壊して行きました。 6月14日 ドイツA軍集団所属の第8軍がパリ入城。 6月21日 フランスでは和平派のフィリップ・ペタン元帥が首相となりドイツとの降伏交渉に入りました。 6月23日 「フランス共和国」はドイツに降伏しました。 その協定内容はフランス側にとって過酷でしたが主権国家としてのフランス政府存続は達成されたのです。 これによりパリなどを含むフランス北部はドイツ側が占領統治下になり、 南部は親ドイツとしてのフランス政府側の統治下として残されました。 しかしそれ以前に多くの戦争の継続を主張する関係者らは拘束されるかイギリスなどに亡命していました。 そして 同日の6月23日、 イギリスに亡命していたフランス前国防次官の「シャルル・ド・ゴール」将軍は、 ロンドンにて亡命フランス人による独自の自由フランス軍である 『自由フランス』(1940年~1944年)(正式にはこの時点では「フランス国民委員会」) の設立を宣言したのです。 7月1日 フランス政府は今まで臨時首都に指定していたボルドーから中部の都市であるヴィシーに移転しました。 そして『フランス国』(1941年~1944年) となったのです。 ペタン元帥が首相となり最高権力者となりました。 この『フランス国』は首都となったヴィシーの名から「ヴィシー政権」と言われこちらの名の方が通称としては一般的です。 ペタン元帥は第1次大戦におけるフランスの英雄でした。 しかし親ドイツ政権としての「ヴィシー政権」の最高権力者となりました。 このペタン元帥を 「裏切者」 とするか 「国家としての体制維持に成功した英雄」 とみるか は賛否両論です。 つまり、 この時点でフランスは、 ・『フランス国』(ヴィシー政権) ・『自由フランス』 という、自らが正統後継政府と主張する2つの組織が存在する事になったのです。 そして約4年間のドイツのフランス占領の後、 (1944年) 6月6日 「オーヴァーロード作戦」が開始されました。 その上陸作戦は「ノルマンディー上陸作戦」という通称が一般的です。 ここにヨーロッパ大陸における連合軍の一大反攻作戦が開始。 しかしドイツ軍も激しく抵抗。 連合軍の初期の戦略目標は、 アメリカ軍が「サン・ロー」 イギリス軍が「カーン」 というノルマンディー海岸に近い都市でした。 しかし アメリカ軍側では「サン・ロー」を奪取したもののそこで戦線が膠着。 一方 イギリス軍は6月末までに「カーン」付近で「エプソム作戦」などの攻勢を仕掛けましたがその度に優秀なドイツ軍戦車の防御により甚大な被害を出して作戦は失敗。 そして 7月18日~7月20日 イギリス軍は「グッドウッド作戦」を開始。 カーン方面にイギリス爆撃機100機の猛爆と火砲400門と海上から巡洋艦2隻の艦砲射撃の援護を受けて英近衛師団、第7師団、第11機甲師団を投入するという大攻勢。 しかしイギリスは強力なドイツ軍戦車の防衛により最終的に戦車400輌と多数の歩兵を失い作戦中止に追い込まれるという大苦戦。 イギリス機甲師団はほぼ壊滅状態に。 しかしこの戦闘でカーンは事実上陥落。 ただし都市部のほとんどは戦闘により廃墟と化しました。 ただしドイツ軍もこのカーン地区での戦闘で大損害を受けており、ドイツ軍は米軍戦域から英軍戦域へと部隊戦力を補充する為の移動を強いられたのです。 そして 7月25日~7月31日 「コブラ作戦」 米軍は「サン・ロー」方面で大攻勢。 空を覆った数千機と言われる米軍爆撃機らが絨毯爆撃を行い、この方面のドイツ軍は大損害を受けました。 特にドイツ軍最強と言われた教導装甲師団(パンツァーレーア)がこの絨毯爆撃の直撃を喰らい僅か5分ほどで壊滅。 そしてこのようにして米軍戦域のドイツ軍戦線に穴が開いてしまったのです。 そしてそこへ 8月8日 米第3軍が新たなる攻勢をかけついに海岸線のアブランシュ付近を突破成功。 これ自体は小さな穴でしたが米第3軍はまるで小さく決壊したダムからあふれ出した水流の如くその小穴からドイツ軍の後方地域へ急進撃。 そしてこれによりノルマンディー戦役におけるドイツ軍の戦線はついに崩壊しドイツ軍は総退却となったのです。

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8月25日 パリは連合軍により奪回。 これにより 「シャルル・ド・ゴール」の「自由フランス」は、 ランスの正当政府として連合国に承認。 しかしまだ戦時中ですので 「フランス共和国臨時政府」(1944年~1945年) となりました。 一方 この情勢を受けて 「ヴィシー政権」はその前から「シャルル・ド・ゴール」と何とか交渉しようとていましたが、ドゴールは拒絶し続けました。 そして 「フランス共和国臨時政府」の発足と共に「ヴィシー政権」は自然崩壊しました。 それにより 「フランス共和国臨時政府」がフランス全土を掌握しました。 1945年 第2次世界大戦後に「フランス共和国臨時政府」は 正式に「フランス共和国」(第四共和政)に戻りました。 しかし 1954年 政界引退したド・ゴールの政界復帰を要求してクーデターが起こりド・ゴールが政界復帰。 現在の第五共和政となりました。

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トム・ハンクスが演じているのは、第2レンジャー大隊のC中隊の大尉で、レンジャーはもともと要塞を攻略して突破口を開けるというのが任務です。 上陸作戦というのは、どこであれ、激しい抵抗が予想されるので、攻撃側が不利なのは当然です。楽に上陸できるというのは、日本軍のように弱体化しすぎて水際で抵抗をしなくなったような状況以外はありえません。ドイツ軍は連合軍の侵攻にそなえて何年もかけて海岸に大西洋の壁と称する要塞群を整備してきましたが、結局、完成してませんでした。また、反撃できるSSの機甲師団が予備兵力にあったのに、ヒトラーが睡眠薬を飲んで寝ていたために出撃許可がおりず、ドイツ軍は反撃の機会を失います。 末子を親元に返す・・の部分は、ナイランド兄弟の出来事をモデルにしたフィクションですが、アメリカは当時は兵役があったので、だいたいは一家庭で一人の犠牲という義務という感覚で、兄弟4人すべてを国に奉公させているのは稀だったのですが、兄弟3人が同時に亡くなるという悲劇が報道されると、国内の戦意が落ちて悪影響があるという配慮で、生き残った一人を本国に戻すという政治判断です。物語にそのへんの説明はありますが。

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質問者2021/6/15 1:30

ちゃんと観ていましたが貴方の回答レベルまで詳しい説明はありませんでした