1680年頃の日本と外国の貿易で金銀比価が違うため金が多量流出したと授業で習ったのですが金銀比価が違うとどれぐらいの利益などの差があるのか

補足

すみません、1860年頃です。日米修好通商条約後の日本の事です

日本史23閲覧

ベストアンサー

0

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございます!

お礼日時:6/16 16:12

その他の回答(2件)

0

当時の国際的な金銀比価は1:15で鎖国体制下の日本では1:5弱でした。 外国商人らは取引用の国際通貨としてメキシコドル(洋銀)を持ち込んでいたが、あらかじめ幕府と諸外国との間には洋銀1枚と日本の一分銀との交換比率を1:3とする了解が成立していました。 仮に洋銀で100ドルを持ち込んできた者がいるとすると、運上所で100ドルを一分銀300枚に交換し、さらに一分銀300枚は小判75枚に交換できます。(1両=4分) 小判75枚に含まれる金は国際市場では300ドルに交換できる、というわけで大量の小判(おそらく50万両以上)が流出したのです。

0

諸外国は金1と銀20でしたが、日本では金1と銀6でした。 そこで日本に銀を持ち込んで金と交換し、それを中国に運んで銀と変え、その銀をまた日本に持ち込み金と交換し、また中国に行き金と交換し…これを繰り返すだけで、どんどん財産が増えていきます。文字通りの錬金術でした。 幕末までは、日本は、本当に黄金の国ジパングでした。インカ帝国滅亡後の世界で、日本の金の保有量は世界一でしたから。 ⬇金不足に対して幕府は「二朱銀」と言う貨幣を作りましたが評国内の判が悪く(だって朱は「金」の単位なのに、それを「銀」で作ったら信用がなくなるのは当たり前です)、さらに外国から持ち込まれたメキシコの銀貨に「三分」と言う刻印を入れて、「三分」として通用させようとしました。これを「改め三分銀」と言います。

画像

元々日本の貨幣単位では、銀は重さを量って使う銀貨は量目不定の丁銀と豆板銀で、天秤で目方を定めて通用する秤量貨幣が基本通貨であり、通貨単位は天秤秤による測定値、すなわち重さをそのまま貨幣単位にしていました。「貫(かん)」、「匁(もんめ)」「分(ぶ)」が用いられました。 銀1貫は銀1000匁、銀1匁は銀10分で通用しました。 ところが、改め三分の場合、メキシコのコインが軽くて「三分の重さがない」のにムリヤリ三分の重さで通用させるのはムリが有りました。 おまけに、庶民にとっては、見たこともない文字や模様が描かれた外国のコインを、使えと言われても…ってトコだったでしょうね。