なぜ バルチック艦隊は こんなバカなことをしたんですか??

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日本史 | ミリタリー1,397閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">100

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日本海軍が、ロシアの極東艦隊を全滅させたからです。 陸軍は既に大陸の奥深くまで進軍してたので補給線を断つ為、ウラジオストクまで艦隊を派遣しなければなりませんでした。47隻中、半分でも軍艦がたどり着けば、ロシアの勝ちでした。しかし日本海軍は全滅させました。(正確にはロシア皇帝に報告させる小船を、武士の情けで一隻、見逃してやった)

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帝国海軍が大和を沖縄に特攻させたごとく、ロシア帝国は無傷のバルチック艦隊を東洋に派遣して、日露戦争の戦闘の帰趨を決めなくてはならなかった。 帝政ロシアは、大日本帝国海軍を撃破できる。いやしなければならないという要請に答えるために、無茶を承知で艦隊を派遣させた。 長征に伴い、補給もままならず兵は疲弊し、艦隊は消耗し、対馬沖で大日本帝国海軍東郷平八郎率いる連合艦隊に対峙し、バルチック艦隊は敗北した。 バルト海で戦ってたら逆に日本が負けたか、引き分けだったろうか???

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私が知ってる内容ではインドより東は補給・休養に相当困っていた様子。 本当に燃料が切迫していたと思います。 当時はレーダーも電探も無いので哨戒は目で見るしかない。 商船団の燃料調達を装ったりしたでしょう。 出発直後、英国漁船を日本の哨戒艇と勘違いして沈めてしまい関係が悪化 英国配下の国は協力が見込めず、補給はフランス植民地頼み。 とにかくウラジオストックに入港して態勢を整え、日本の連合艦隊を撃破して 旅順の借りを返して面子を回復し、太平洋への突破口を押さえる。 そんな戦いになるはずでした。 日本側も津軽は閉鎖済みだった様子で宗谷か対馬かで迷っていた。 決戦当日はバルチック艦隊が午前中に姿を見せなかったら、 連合艦隊は宗谷へ向かう事になっていた。 これは日本側の哨戒網に掛かっていたにも関わらず、無線連絡が上手く行かず 当日未明まで正確な情報が伝わらなかったため。 通過が1日遅れていたら、バルチック艦隊はもぬけの殻の対馬沖を楽々通過、 ウラジオストックへ入港し準備万端になっていたので結果は変わったかも。 あと、当時の日本兵の練度は高くない。敵前逃亡も当たり前の状況。 この現実を受け止め、どうしたら兵員を上手く扱えるか知恵を絞った。 太平洋戦争時とは指揮官の考え方が大きく違う。 ネルソンタッチ云々よりも、お前ら殺らなきゃ殺られるぞ!! という状況へ兵員を上手く追い込んだと思います。 一方は 半年以上、艦上で食っちゃ寝、時々訓練では筋力も落ちたでしょう。 砲弾込めるにも困ったのでは?

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どこの港もイギリスの息が掛かっ て石炭補給が思うにまかせませんでした。選択肢が他にあった訳ではありません。 大艦隊で隠密行動を取る事はほとんど不可能です。 日本の海域に近づけば近づくほど情報網に引っ掛かる可能性は高くなって当然です。

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下記の事件の影響っすかね(イギリス関係の港に入港できなかったことで、上海租界(フランス(露仏同盟))で補給を行わざるを得なかったからっすかね) ドッガーバンク事件 ドッガーバンク事件(ドッガーバンクじけん、英語: Dogger Bank Incident)は、ロシア帝国のバルチック艦隊が日露戦争に際して極東へ向かう途上、1904年10月21日深夜から翌22日未明にかけて北海のドッガーバンク付近で大日本帝国海軍艦船と誤認してイギリスの漁船を攻撃し、漁民に死傷者が発生した事件である。 日本海海戦への影響 この事件により、市民レベルで反露・親日の機運が盛んとなり、イギリス本土も植民地も「バルチック艦隊」の入港を拒否。また当時の船の主力燃料で、イギリスが供給の大部分を支配していた「無煙炭」の補給も拒否した。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6