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2021/7/22 9:17

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日本は大東亜戦争の総括ができていません。 終戦後、日本独自であの戦争を総括し、もし罪があるのなら、容疑者を裁判にかけるという選択肢はなかったでしょうか?

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2021/7/24 14:02

昭和20年(1945)9月27日、昭和天皇がダグラス・マッカーサーを訪れ、会見しました。歴史的な会見として知られます。 昭和20年8月15日、玉音放送によって、日本の敗戦が国民に知らされました。この時、昭和天皇が心を痛めていたのは、自分の臣下であった者が、戦争犯罪人として裁かれることでした。「自分が一人引き受けて、退位でもして、収めるわけにはいかないだろうか」。昭和天皇は、木戸内大臣にそう洩らされたといいます。 8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着。その3日後の9月2日、東京湾に入った戦艦ミズーリ艦上において、降伏調印式が行なわれました。 マッカーサーは、以後、政策立案は連合国総司令部GHQが行なうと日本政府に通告。GHQは本部を皇居の隣に移すと、9月11日、事前通告なしに東條英機元首相をはじめとする37人を戦争犯罪人として逮捕、拘留しました。前日、アメリカ議会では、昭和天皇を戦犯として裁く決議案が提出されています。 その少し後のこと、新たに外相となった吉田茂が昭和天皇に招かれて宮中に赴き、マッカーサーに会いたいという意向を告げられました。9月20日、吉田は天皇の意向をマッカーサーに伝えます。マッカーサーは自分が天皇にお目にかかるのはよいことだと思うが、天皇の自尊心を傷つけたり、困らせることがあってはならないとして、アメリカ大使公邸での会見を告げました。 9月27日午前10時。シルクハットにモーニングの正装の昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使公邸の門を潜りました。もちろん、これはただの会見ではありません。側近たちは天皇のお命を心配し、天皇ご自身は自分に日本人と皇族の運命がかかっていることを承知されていました。公邸玄関にマッカーサーの姿はなく、2人の副官が出迎えます。マッカーサーはレセプションルームで天皇を出迎え、奥の部屋に案内しました。会見が始まる前、写真撮影があり、その中の一枚が教科書にも載っている、あの写真です。 写真撮影後、2人の会見が始まりました。そこでどんな会話が交わされたのか、公式の記録はありません。しかし、マッカーサーは回顧録に次のように記します。 「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、全責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」(『マッカーサー回顧録』1963年) また、この時、同行していた通訳がまとめた天皇の発言のメモを、翌日、藤田侍従長が目を通しています。藤田は回想録にこう記します。 「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。 『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。 これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和36年)。 会見は当初、15分の予定でしたが、35分にも及び、会見終了後、マッカーサーの天皇に対する態度は一変していました。感動した彼は予定を変えて、昭和天皇を玄関にまで出て見送るのです。マッカーサーの最大の好意の表われでした。 人を動かすものとは何か、昭和天皇のお姿が、すべてを語っておられます。日本がまな板の上に乗せられたあの時に、昭和天皇がいらっしゃったことは、日本人にとってどれほど大きな意味があったか、そんな気持ちになります。

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日本の法規に違反していれば、罰することはできたと思います。 この場合は、戦争の勝敗とは何の関係もありません。法規に違反していれば、勝とうが負けようが、その実行者は当然処罰されるだけの話です。 開戦そのものは正規の手続きで行われたものであれば法律違反ではないので、政治責任はあるかもれませんが、裁判にかけることはできません。また、戦争中の作戦指導や戦闘の失敗も、法律違反がなければその責任者を犯罪者として裁判にかけることはできません。

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あの戦争の容疑者は誰なのでしょうか?

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質問者2021/7/22 9:59

戦争は罪にはなりません。 戦争犯罪が罪になるのです。 当時の日本政府・日本軍にはたして戦争犯罪容疑があったのか、なかったのか、を明確にすることです。 あったのなら、その責任者は容疑者になります。

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敗戦直後から戦勝国とは別の立場で、敗戦を総括し、過ちをあらいだして後世の糧にしようという動きはありました。 幣原喜重郎内閣が立ち上げた国家プロジェクト、戦争調査会です。多数の戦犯逮捕、公文書焼却という困難のなか40回を超える会議が行われました。 日本人自らの手で開戦、敗戦の原因を明らかにしようとしたものの、GHQによって1年弱で廃止されました。 「戦勝国とは別の立場」を、日本の正義を唱える歴史観を作ろうとしていると誤解されたからでした。 詳しくは『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』 (講談社現代新書) にあります。

つまり戦後の日本にはアジア太平洋戦争について自ら総括したり、責任者をさばくような自由はなかったと言えます。 戦勝国の歴史観と、戦勝国の裁きを受け入れるしかない。 それが敗戦国の現実でした。

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太平洋戦争の総括が終わっていないと言う意見は良く聞きますが、歴史的には戦後処理は戦勝国によって裁かれ、領土を含め事実上の略奪が行われるだけで、敗戦国が自らを裁いた例はありません。 日本は有史以来、敗戦したことがありませんでしたので、70年経ってもどう位置付けるのかが問題視されますが、今更答えは出ないと思います。