織田氏配下の明智光秀、細川藤孝による丹波國・丹後國への侵攻作戦の大義名分は何だったんですか?

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天正三(1575)年七月三日、信長の推挙により、光秀は朝廷から「惟任」姓と「日向守」という官職を得ました。 同月二十四日には、小畠(左馬進)永明に書状(大東急記念文庫所蔵『小畠文書』)を出し、「二十六日には宇津表(丹波国桑田郡)を攻略するために、桐野河内(丹波国船井郡)に着陣するよう」にと指示を出しています。 しかし、光秀は八月十二日(または十四日)に越前一向一揆勢攻めに出陣したようです。 ところが、その間も宇津氏攻めは進行していたようで、永明は負傷し、それを心配した光秀は、九月十六日に永明宛てに書状(大阪青山歴史文学博物館所蔵『小畠文書』)で気遣っています。 なお、波多野秀治が裏切りで、光秀が撤退を余儀なくされる以前の丹波攻めの拠点は坂本城でした。 光秀は丹波国内の拠点の必要性を感じ、亀山城を築城しました。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

有難う御座いました!

お礼日時:9/25 20:16

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丹波氷上郡領主の赤井直正が、隣接する但馬山名氏を攻撃し、 山名氏が信長に救援を求めたからです。 そこで、信長は赤井氏討伐を光秀に命じると、 織田家に服従していた、八上郡の波多野氏も、 赤井氏に味方したため、丹波全域が、 反織田陣営になってしまったのです。

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