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2021/9/19 7:29

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なぜドイツは東プロイセン、シレジア、ケーニヒスベルクなどのまさに固有の領土を敗戦で失ったのに、可哀想とか同情したり、ドイツがそれの地域を失うことを阻止や批難をする国は皆無だったのでしょうか?

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りすたりすさんご丁寧な回答ありがとうございました。

お礼日時:9/26 18:13

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>世界はドイツのことなど知ったことではないと言う感じ 実際そうでしょう。国自体分割してしまうくらいですから。

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1970年代までは西ドイツも旧領回復の主張はありましたが 社会民主党単独政権となり、首班のブラント首相がそれまで西ドイツの外交基本政策のであるハルシュタイン原則(東ドイツと国交のある国とは国交を結ばない…ソ連を除く)を放棄し ソ連、東独を含む東欧諸国、特にポーランドとの関係改善を行う東方外交を展開 ポーランド訪問時にオーデル・ナイセ国境線を恒久的国境線として承認し未来永劫旧領の要求をしないことを公式の西ドイツの見解としたのです 第二次世界大戦中、米英ソの話し合いで容共主義的なルーズベルトに比べ共産主義に不信感を持つチャーチルは強欲なスターリンのドイツやポーランドに対する領土要求に驚いたが、戦争を終わらせるにはやむを得ないと考えていましたが 当初、チャーチルはスターリンの言う新たなドイツ・ポーランド国境線のオーデル・ナイセ線のナイセ川を東ナイセ川と思っていた 東ナイセ川が国境線なら州都のブレスラウをはじめシレジアの工業地帯の大部分はドイツに帰属される しかしそれがスターリンの要求が西ナイセ川であったことを知り驚愕 またオーデル川西岸にあるにも関わらず大きな造船所のあるシュテティーンもポーランドに帰属することでチャーチルも呆れて 不信感の募ったチャーチルは降伏したドイツ軍の一部を再武装して米英軍とともに対独戦終了後のソ連軍に対し先制攻撃を仕掛けるアンシンカブル作戦の立案を参謀本部に命じています "Operation Unthinkable - Wikipedia" https://en.m.wikipedia.org/wiki/Operation_Unthinkable しかし結局、作戦は実行されず ソ連軍より早く米軍が占領したライプツィヒ、マグデブルク、エルフルト、ハレなど後の東ドイツの東南部に位置する地域を住民ごとソ連に引き渡していました アメリカ軍に占領され安堵していた同地域のドイツ人住民は地獄に落とされたと同然に感じていたでしょう

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大戦前、大戦中とんでもなくひどい事をしたドイツですから同情などはなかったでしょう。 ポーランドはソヴィエトに次ぐドイツ侵略の被害者です。それに加えてソヴィエトの拡張野心の犠牲になって戦勝国であるにもかかわらず東部の領土を失っています。オーデル・ナイセ川以東のドイツ領を取らなければおそらく国家としてなりたたないまでに領土が縮小してしまいます。 チェコもドイツの犠牲になったばかりでなく戦後は戦勝国であるにもかかわらずカルパト・ウクライナ(ルテニア、ザカルパチア)をソヴィエトに奪われています。本来なら賠償、補償としてドイツに領土割譲を求めたいところで同情などおこるはずがありません。 オーストリアは戦前にドイツに併合されたとはいうものの、それを(大)ドイツへの復帰として歓迎するオーストリア人もたくさんいました。本来なら敗戦国、加害者として扱われるべきものを被害者の側にまわることで戦後は必死でした。ドイツに同情などしたらせっかくの努力も水の泡。 西側諸国はと言えばベネルクス三国は戦中同じようにドイツの占領下にありその圧政に苦しんでいました。戦中のドイツ人の蛮行への恨みは根強いもので個人レベルでは直接体験した人たちのみならず、その孫子(まごこ)の世代にも一定の反ドイツ感情が見られました(例;ドイツ語はわかるけれど話したくない)。ベルギーがおそらく一番強硬的で戦後処理でドイツ領の割譲を要求しましたし、イギリス占領地域の一部ではイギリス軍に代わってベルギー軍が進駐し戦勝国として統治にあたっています。 という具合にドイツの東西どこにも敗戦ドイツに同情する声はありませんでした。

nxo********さん >社会民主党単独政権となり、 ドイツ連邦共和国の歴史上、社会民主党SPDの単独政権はありません。常に連立政権でした。ブラント宰相の連立相手は自由民主党F.D.Pでした。 >ソ連軍より早く米軍が占領したライプツィヒ、マグデブルク、 >エルフルト、ハレなど後の東ドイツの東南部に位置する地域を >住民ごとソ連に引き渡していました これは戦線の推移や終戦時の前線に関係なく1944年のロンドン議定書で決められていたことです。もしアメリカ軍がこの地から撤収せずそのまま占領を続けていたら、フランス、イギリス、アメリカのベルリン占領もなかったことでしょう。

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第一次世界大戦の講話条件で、ドイツからポーランドへの領土割譲が行われ、ポーランド領土がバルト海まで伸びました。この部分をポーランド回廊と呼びます。 このことで、ケーニヒスベルクを含む東プロイセンは、ドイツ領として残りましたが本土から切り離された飛び地になってしまったのです。 ポーランド回廊の存在によって東プロイセンのドイツ人が不利益を被り、危険にさらされているので保護する必要がある、というのがナチスドイツがポーランドに侵攻したときの大義名分でした。 なので、第一次世界大戦の戦後処理を否定する口実にした報いとして、東プロイセンは没収だというのは国際的にも支持されたと思います。 あと、第二次世界大戦の始まりとなったポーランドの戦争は、最初からドイツが全土を占領したわけではなく、秘密協定によって東半分がソ連に与えられました。英仏と戦うときに、ソ連に背後から襲われないようにするための餌です。そのエリアをドイツが占領したのは、バルバロッサ作戦で対ソ戦に踏みきったあとでした。 そのためナチスドイツが滅びると、ソ連は、ポーランド東半分は戦争によらずに平和裏に得た自国領土だと主張しました。怪しげな主張ではありますが、ソ連はナチスとの戦いで最大の貢献国でしたから、その発言力は強かったのです。 とはいえ、ポーランドも戦勝国ですから、そのポーランドの領土が削られたままでは、さすがに国際世論が納得しません。そこで、ポーランドという国全体を西にずらして領土面積を保障してやることで決着が図られたのです。シレジアなどが失われたのはそういう事情からです。