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2021/10/12 21:28

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日本史59閲覧

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以下、教科書的=受験向きではないですよ。 >天皇家の対立+摂関家の内紛+武士の勢力争い 武士なんかまだ影響力は低い。 正しくは、天皇家の対立+摂関家の内紛+朝廷内の権力争い。 それぞれ、 美福門院(鳥羽院派)+藤原忠通+信西・・・後白河天皇<二条天皇(美福門院の養子) VS 崇徳院(待賢門院)+藤原頼長 美福門院は身分不相応にもわが子を天皇にし(近衛天皇)権勢を得たが、この子が死んでしまったため、次の天皇に養子をと画策。 そのために養子の実父を繋ぎの天皇に。(後白河天皇) 崇徳院の子も養子にしていたが、その子を天皇にしてしまうと権力が崇徳院に移ってしまう(院政)ため、それは回避したかった。 信西は後白河天皇の乳母父(妻が乳母)だったので権勢を得られる。 崇徳院の正室は藤原忠通の娘だが子が授からず、別の女が産んだ子が次期天皇候補だったため面白くない。 美福門院と利害が一致。 一方忠通は優秀な弟・頼長に摂関家嫡男の地位を脅かされていた。 頼長は、信西と政治的ライバルであり、美福門院を批判していた。 鳥羽院は中立的立場で均衡を保つようにしていたが、崩御すると、鳥羽院派が因縁付けるように崇徳院や藤原頼長をつつく。 同じ敵を持つ者同士応戦するも勝ち目がない。 武力として武士たちはそれぞれの関係に従って参戦。 源為義は藤原忠実に使えていたので、その愛息子・頼長に味方。 平忠正 は藤原頼長に仕えていたので。 一方、源義朝や平清盛は鳥羽院派だったので。

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崇徳上皇と後白河天皇の間の皇位継承をめぐる争いに、摂関家内の勢力争いが絡み、源氏と平氏の武力を利用した政変。 鳥羽法皇が崩御すると、後白河天皇は次の天皇を誰にするかで崇徳上皇と対立する。そのとき関白だった藤原忠通は自分の子供を関白に就けるのに邪魔になった藤氏長者の藤原頼長と対立し、後白河天皇に協力する。結果として後白河天皇、藤原忠通側は源義朝、平清盛、源頼政らを味方とし、崇徳上皇、藤原頼長側は源為義、平忠正を味方として保元の乱が起きた。 乱後、崇徳上皇は流罪、藤原頼長は戦死、源為義は処刑(源義朝が実行)、平忠正は処刑(平清盛が実行)。 上皇側戦力が藤原氏の私兵しかいなかったので乱は小規模であり勝敗もすぐについたが影響は大きく、特に藤原家の凋落、武士の台頭と源平の対立(源義朝と平清盛)がはっきりした。

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簡単に説明すると、朝廷の主導権を巡る崇徳上皇と後白河天皇の対立が、源氏と平氏という武士達を巻き込んでしまった為に武力衝突に発展してしまった。それが保元の乱。 戦いの結果、後白河天皇が勝利したので、朝廷の主導権は後白河が握る事になる。負けた崇徳上皇は讃岐国(今の香川県)に流され、死後は怨霊になったと噂されて京都の人々に長らく畏れられる存在となったという(それゆえに「崇徳」という号を与えられた)。 ただ実際の事情はかなり複雑で、実際には崇徳上皇と後白河天皇の対立だけでなく、それを支える藤原摂関家や、武力面で中核を担った源平両氏においても一族間の対立抗争が生じていて、それらが複雑に絡み合ってにっちもさっちもいかなくなった結果起こったのが保元の乱であると言える。 皇室においては、崇徳上皇と後白河天皇が対立していたが、そもそもの発端は彼らの父である鳥羽法皇に原因がある。鳥羽はまず息子の崇徳に皇位を譲ったが、権力は手放さず、やがて崇徳に対して弟に皇位を譲るように迫った。崇徳はやむなくこれに応じ、紆余曲折の末に弟の後白河が即位したが、このような処置を崇徳が面白く思うはずがなかった。 鳥羽法皇が死ぬと、崇徳はようやく鬱憤を晴らす機会が来たと思い、権力を手に入れようと試みるが、後白河が反発した。「天皇は自分なんだから、とっくに引退した兄貴の出る幕はない」と言うわけ。当然崇徳も反発する。こうして崇徳と後白河は朝廷の主導権を巡って激しく対立するようになった。 藤原摂関家においては、関白の藤原忠通と弟の藤原頼長が対立し、忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に味方して、それぞれ両陣営の指導的立場についた。 一方、源氏においては棟梁の源為義と長男の源義朝が対立し、前者は崇徳上皇、後者は後白河天皇について、親子兄弟で激しく殺し合った。 平氏においても棟梁の平清盛が後白河天皇に味方したのに対し、叔父の平忠正は崇徳上皇に味方したので、こちらも一族同士で殺し合っている。ただ源氏ほど凄惨な状況には陥らなかったので、平氏はさほど大きなダメージを受けずに済み、戦後の政局において平清盛は源義朝より優位な立場を得る事になった。