本能寺の変後、明智光秀の親類になる細川藤孝親子が光秀の味方をしなかったのは何故ですか?

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単に「義がなかった」からです。 下剋上の世の中とはいえ、上司である信長を殺すってのは「悪」です。本来は光秀はすぐになぜ信長を殺さねばならなかったのかの理由を広く公表する必要がありました。あるいはせめて味方をしてほしい人物にはその理由を説明しなければならなかったんですが、少なくともそのような資料は見つかっていません。 いかに親友とはいえ、悪行を働いた人物に味方することはできなかったのです。

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織田信長の毛利攻めは、既に前年から計画されていました。 『信長公記』巻十四の「毛利取鳥へ後巻き事」という記事にそれは書かれています。 蛇足ながら、太田牛一は「鳥取」を「取鳥」と書き間違えています。 天正九(1581)年八月十三日、信長は鳥取城の救援に毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が出陣するという風説を聞き、自ら出陣して雌雄を決しようと考え、先陣として丹後では細川藤孝父子三人、丹波では明智光秀、摂津では池田恒興を大将として高山右近・中川清秀・安部二右衛門・塩河吉大夫らに出陣準備をして待機しておくようにと命令を出しました。 結局、この時の信長の出陣は実現しませんでしたが、細川・明智の両人は船に兵糧を積ませ鳥取城へ向かわせ、その後は鳥取川に停泊させていました。 細川家の指揮官は松井康之で、明智家については分かりません。 信長の天正十(1582)年の毛利攻めには、この様な前提があります。 細川忠興の幼名は「熊千代」と言い、その後、「与一郎」と名乗ります。 天正五(1577)年十月、大和国の片岡城攻めでは十五歳ながら、十三歳の弟:頓五郎(昌興)とともに手柄を挙げ、信長から直筆の感状を受けました。 元服は翌六(1578)年で、一説によると信忠から偏諱を受け、「与一郎」から「忠興」になり、信長の昵近の列に加えられたと言います。 天正十(1582)年六月三日、忠興は先鋒を宮津城より出発させ、備中へ向かおうとしたところ、京都の変報を受け、すぐに兵を戻したと言います。 そして、忠興は味方になるように言ってきた光秀の使者さえも切ろうとし、藤孝・忠興・昌興の三人で話し合い、結局、忠興の考えで味方しないと決めました。 忠興にとって、信長・信忠は大切な人物だったようです。 六月八日付松井康之宛杉若藤七書状があります。 受取人の松井康之は上記の様に細川家の家臣、そして差出人の杉若藤七は羽柴秀長の家臣です。 この書状には、「両川(吉川・小早川)」から人質を取り、「三ヵ国」すなわち備後、出雲、備中と伯耆の半国を毛利側に渡して和睦したと書かれています。 なお、毛利側が出していた和睦条件は「備中・備前・美作・伯耆・出雲」の「五ヵ国割譲」というものでした。 最後に、羽柴側が毛利側から取っていた人質の名前は、天正十一(1583)年十一月十二日付道薫(荒木村重)宛黒田孝高(官兵衛)書状に書かれていて、「小早川秀包(毛利輝元の弟)」です。

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細川にとって信長の生死こそが分かれ道だったと思います。 自分の頭をキンキラキンされたくないでしょう。

分かり難いか。 もしも、信長の罠だったら、 各地に散ってる武将が帰ってきたら、首級が見つからない信長がひょっこり現れる。 もう悪夢の極み以上です。

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細川氏が当時、丹後の大名だというのは 織田信長の臣下であったのを背景にして いました。そして丹後の出身では無い 細川が丹後を統治し丹後の一色氏は 細川の与力を していました。 本能寺の変おきて一色氏は明智に味方 して細川を丹後から追い出して独占 しようとしたようです。一色氏と対立 する以上また丹後を譲る気が無い以上 、細川氏は明智に加担できず実際、 細川氏は一色氏を謀略もちいて討って いました。

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ちょっと、回答から逸れますけど 常識的に考えて、自爆テロならともかく 信長勢力圏のど真ん中京都で反乱起こしたところで、信長重臣に包囲殲滅されるだけでしょう? もし、光秀が反乱を本気で起こすなら、山陰に出陣した後、毛利側に寝返るべきですね もちろん、その場合、家族は見殺しにするということです 細川親子は、この反乱が周到に計画されたものでない以上、成功の見込みは薄いということで、明智軍に合流しなかったのだと思いますね