「文学作品の解釈は人それぞれ」

補足

回答ありがとうございます。 お二人は別の言葉で同じ事を言っていると考えても宜しいですか? I&M.d.W.さんの仰る「読解」は即ちこせいりょうさんの仰る「責任ある解釈」ですよね? こせいりょうさんは責任という語彙を「客観的根拠」という意味で使っていますか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

一方、「人それぞれ」と言い張りたがる人ほど、実は他人の「解釈」には興味も関心もないと言っても過言ではありません。 そう、「これは自分の『解釈』なんだから、他人にとやかく言われたくない」と言い張っているいるだけ、と。 まさしくその通りだと思います。強く共感します。この「人それぞれ」という言葉には裏がある。決して他人の意見を尊重してこう言うのではない。実際には、自分だけを尊重しているのだ。

お礼日時:10/22 0:26

その他の回答(5件)

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本当と言えば本当だ。 作者が表現したかった事は確実に存在するので、『答えはたった一つ』という風に考えがちだ。実のところ、作り手が意図するところは一つかもしれない。 ただ…..例えば、作品が書かれた時代と国、読み手の時代と国がめっちゃ違った場合はどうだろう。 アメリカで50年代に書かれた『原爆によって戦争が終わった!原爆は平和の象徴だ!』という作品を現代の日本人が読んだら、アメリカ人が読むのとでは解釈が全然違ってくるだろう。 作者が『原爆は良いものだ!』という風に考えて作品を作った事は疑いようが無い。それは単なる『事実』とか『意図』と呼ばれる。それをどう受け止めるかが『解釈』であって、それこそ人によって結構違うよねー、ってことじゃないかな。解釈というのは、受け手の主観があって初めて形になるというか。

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本当です。 例えばショパンのピアノ曲には譜面がある。これは誰が見ても同じ譜面で変えようがない。ただの一音だって変えることができない。ところが各ピアニストが演奏するとそれぞれテンポ、強弱、間の取り方等々が違ったふうに聞こえる。譜面は一つなのに同じ演奏は一つとしてない。これを解釈の違いと認識している。例えば誰が弾こうが、素人の私が弾こうが「別れの曲」を他の曲であると間違える者はいない。つまり演奏の奥には変えようのない作品が在るが、多様な演奏も確かに在る。いったい誰がそれらの演奏(解釈)に正誤があると言うのだろうか? 文学作品も同じで作品は変えようがなく一つであるが多様な解釈は可能である。その解釈を受け入れるか受け入れないかも人それぞれで、正しい解釈、正しくない解釈は決めようがない。せいぜい「お前の解釈、納得いかないなあ」、あるいは「その解釈は好きだが、この解釈は嫌い」という程度である。いったい誰がその正誤を決めるのか?多数決という怪しげな客観性ででもって決めようとでも言うのだろうか。あるいは有識者が言っているものが正しくて市井の読者が言っていることだったら正しくないするのか? 例えば作品の中の「驚愕した」という表現をどの程度の驚きと解釈するかは「人それぞれ」としか言い様がないと考えます。 注:上記は誤読と解釈の違いは分けて、解釈の違い(人それぞれ)はあるのかについてのみ回答しました。

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一篇の小説に複数の解釈はあり得るだろうか。 多くの人が、当たり前のようにあるというが、一篇の小説は膨大な言葉によって厳密かつ緊密に構築された構築物である。それはちょうど自動車のようなもので、何万という部品を一つの間違いもなく組み立てて完成させる。その結果として、それは自動車として動くし、誰が見ても自動車以外のものではあり得ない。自動車の一部分だけを見れば、椅子であったりソファーであったりするが、作品はつねに全体としてあるわけだから、この場合、一部分だけを見たこと自体が間違いなのである。として、一篇の小説に複数の解釈はあり得るのか。 一篇の恋愛小説は誰が読んでも恋愛小説であって、経済小説ではない。たとえば乗用車にも荷物を入れるトランクがあるように、恋愛小説にも経済小説的な部分はいくらでもあるが、トランクがあるからといって乗用車をトラックとは認識はしないように、一篇の小説は一個の有機体として存在する以上、その小説を経済小説とは認識しないだろう。

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文学作品の解釈は「責任があるかないか」が大変重要です。 例えば知恵袋でおなじみの漱石著『こころ』では、Kの自殺を失恋または学業への焦りなど、様々に根拠を出して責任を持って解釈すれば、どれも正解です、しかし「Kは性的不能者であったため自殺した」など、根拠に乏しい無責任な回答は即時不合格です。 「文学作品の解釈は人それぞれ」は同感ですが、無制限ではないでしょう。あくまでその解釈に責任を取れるかが、必要条件だと思います。

補足に接して。 「責任という語彙を客観的根拠であること」は、その通りではあります。 しかしもし「主観的な読解」であっても、読者が自らの人生を顧みての真摯な主観的であれば、私は決して無視まではしません。「誤読の自由」と判断して、私は胸に刻みます。例え誤った解釈でも、そして試験などの採点ではバツにはしますが、私はその回答を尊重します。 ただし回答文にも挙げましたが、ふざけ半分の文章を書いて結論として「Kは性的不能者であったため自殺した」と閉めてあれば、私は冷厳に黙殺します。 繰り返しますが、解釈に「責任」さえあれば「正解」か、あるいは「不正解だが、誤読の自由として大いに尊重」する、と考えているのが今の私です。

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基本、本当です 一般に、正誤が問題になる領域は読解、ならない領域を解釈と呼んで区別します客観的に正誤が判断できる領域と、主観的に意味・価値を評価する領域の区別とも言えます

【二人は別の言葉で同じ事を言っている】 【I&M.d.W.さんの仰る「読解」は即ちこせいりょうさんの仰る「責任ある解釈」ですよね?】 ともに、違います 別の言葉を使っている時点で言っている事は同じにはなりません かりに重なる部分があるにしても、同じという言い方をした時点で違うと言わざるを得ません それに、私は読解と解釈を基本的に分けていますから、どのような修飾語を付けたところで両者を即ちで結ぶなどあり得ません