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2022/1/13 17:58

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項羽と劉邦

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<劉邦自身は大物になると思っていたのでしょうか> 劉邦は、呂氏と計って、自分が天子になる身であると宣伝していたそうです。 劉邦が秦の役人を辞めて山中の逃れた後の話ですが、始皇帝が天子の気があると言って、その芽を摘むために彭城の近く(はい豊周辺)に頻繁に行幸していたと史記に書かれています。 始皇帝も普通の人間なので、劉邦が天下を取る天子になるなんて分かっていなかったことでしょう。始皇帝が彭城の近くにきていたとしたら、たまたまのはずです。 しかし、その度、劉邦は山中に逃げて、難を逃れた、なんていう作り話を呂氏と一緒に作り上げたそうです。(呂氏は、劉邦がいるところには雲気があるので、いる場所がすぐわかると言って、劉邦が特別な人間であると印象付けようとしたそうです。しかし、劉邦に雲気があって居場所が分かるなら、始皇帝にもばれてしまいそうなものですが) また、劉邦の体に72のほくろがあり、それを酒の席で数えさせることで、自分が竜の子(天子)であると、思わせるようなことをしていたそうです。 史記の高祖本紀にそのように記載されていて、劉邦は、中国の天子になる気満々でした。 <范増は劉邦は後に大物になると予想して項羽に忠告していましたが、劉邦自身は大物になると思っていたのでしょうか。> 上記の話もあるので、始皇帝に憧れていたと言う劉邦は機会があれば、呂氏と共に天下を取りたいとは思っていました。しかし、この時は、項籍の方が軍事力が上だったので、大人しく雌伏しました。 しかし、劉邦は関中を占領した後、関中の有力者に法三章を宣言するなど、その後のこともなかなか意識していると思います。 そして、法三章や秦を攻めるにあたって虐殺をしなかったことにより、関中の人々は熱烈劉邦支持になりました。 <劉邦は大好きだった女性にもお宝にも目もくれなくなっていたので意思を持ってやはり大物になろうとしていたのでしょうか。> 劉邦は、項籍よりも先に関中に到着していましたけど、その時は、項籍の方が軍事力が高かったので、項籍に滅ぼされないように秦の宝物を盗まずにとっておきました。美しい女性達にも目を奪われましたが、それも、張良が手を付けちゃだめだというので、大人しく言うことを聞きました。この時、劉邦は妻の呂氏と一緒だったのもあったのかもしれません。呂氏は、劉邦の陣営でなかなかの権力を持ってましたから。(しかし、その後、劉邦は戚夫人を手に入れて、呂氏を蔑ろにしますけど…。呂氏は、劉邦の実家に帰ってしまいます。秦の後宮の美女には、劉邦のお気に入りになるような女性がいなかったようです。呂氏はかなりの美人でしたから。) しかし、機会があれば、始皇帝に憧れていたと言う劉邦は天下を取りたいとは思っていたでしょう。しかし、この時は、項籍の方が軍事力が上だったので、鴻門の会では大人しく雌伏しました。 范増が思ったことは、劉邦も思っていたことです。後で知って劉邦は范増を知恵者だと評価しました。 しかし、項籍は、自分の軍事力に自信があったので、劉邦を見逃しました。というか、項籍は、戦争上手な劉邦を気に入っていたので、殺そうなんて思わなかったのです。 項籍は、戦争上手な人が好きだったので。

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劉邦自身も自分がまさか、項羽に勝って天下を取って皇帝になるとは勿論思っていませんでした。しかし、劉邦は清濁併せ呑む大度量を持った有徳の長者だったのです。だから、漢の三傑と言われる張良・蕭何・韓信を始め曹参・樊かい・陳平・周勃・夏侯嬰・王陵・れきいき・陸賈・随何等の優れた人材が劉邦の部下になったのです。劉邦は項羽と違い自分よりも遥かに優れた彼等を使いこなしたから天下統一を成し遂げ漢の初代皇帝高祖になる事が出来たのです。後年、謀反の疑いをかけられて劉邦に捕らえれた韓信は劉邦は将の将たる器と答えています。それは全くその通りなのです。劉邦は皇帝たるべき器の持ち主だったのです。

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范増は劉邦の人に好かれる質を人望ある者と読み違えたのです。 劉邦自身は酒が飲めて家族と暮らせて働かなくていいならそれで十分だと思っていました。 劉邦の子孫は男女問わず、今でも酒好きです。 そしてご先祖様はとにかく酒好きで、酒が飲めない奴は一族の者ではないと家訓にしているそうです。 そして劉邦は自身が学が無い事をコンプレックスにしていました。その為、頭の良い張良や蕭何などがあれこれと指示を出す事に嫌がらず快諾してその通りにしました。 咸陽一番乗りを果たすまでは無駄に戦うな、咸陽に入ったら宝物庫と阿房宮は襲うな、と指示されて鬱陶しさを感じつつもちゃんと守った為に部下達も従わざるを得なくなりました。 その後、項羽が函谷関に接近した時に項羽に門を開けないようにと讒言を素直に聞き入れた為、項羽は激怒して函谷関を攻め落とし、鴻門の会へと繋がります。 ある意味、分け隔てなく聞く耳を持つ劉邦は大物の片鱗はありました。 しかし素直過ぎた事で自分の首を絞める事になり、天下を取る気はこの時はさらさら無かったと思われます。 劉邦が天下を意識し出したのは蜀に流されて韓信を得て、再び咸陽を奪い返した時からだと思います。

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高祖本紀のこの記述から、劉邦自身にも大きな望みがあった、といえると思います。 仁にして人を愛し,施しを喜び,心は闊達、常に度量が大きかった。 高祖は咸陽にて,秦皇帝をみて、深いため息をついて行った「ああ,大丈夫たるもの、このようであるべきだ!」 多くの奇相を持っていた、赤帝の子が白帝の子を斬った、彼のいる場所の上には、いつも雲気がたなびいていたなど、後世の牽強付会も加わっているかもしれませんが、漢の旗に赤を採用したことなど、意識的に利用し、宣伝に用いていた可能性はあります。

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