世界史で「聖像破壊運動」というのを勉強してください。
すでにそれまで、キリスト教の中では様々に聖像が使われていました。
当初からバルバラのお宅にキリストの像があったという話もあります。当初からですよ。
また、キリストが顔をぬぐったハンカチにキリストの顔が写って、それは「手によってつくられしものにあらず」という呼び方で知られているイコンでした。描いてないわけですからね。
キリストがそもそも見えざる神が見える肉体の形をとってこの世においでになったわけですから、そういうものがあって当然だったわけです。
また、現在のカトリックのエリア、西方では布教のために絵画や像が使われていました。いま、プロテスタントの人たちは偉そうに「聖書だけだ」「偶像はダメだ」などと言っていますけど、当時のガリア(フランス)やゲルマニア(ドイツ)などの西方では、ほとんどの人が文盲だったのです。フランク王国のカール大帝はキリスト教を保護しましたが、彼も文盲だった。フランスやドイツの人はそもそも字が読めなかったんです。
何が起こったのか伝えるためには、三位一体ですら、無理やりにでも絵や図で描く必要があったんです。
ところが、7世紀にイスラムが起こり、その影響で、そのように形に表した像や絵を捨てたり破壊したりする運動が起こりました。それがイコノクラスム(聖像破壊運動)です。
これは、キリスト教会を二分する大論争になったわけですが、最終的には教会は、絵に描かれたキリストやマリヤさんや諸聖人、主の事績の絵などを認めることになりました。
モーゼのときに定められた偶像崇拝禁止の定めは「あなた方は自分のために像を刻んではならない」であって、イコンは刻んではいません。イコンを崇拝することは、像を崇拝することではなく、その像の向こうにある天国を拝んでいるのだ、というわけです。
今残っているいくつかの代表的なイコンがイコノクラスムに関係しています。
イビロン修道院にある、ポルタイティッサと呼ばれるマリヤさんのイコンは、コンスタンチノポリスで聖像破壊運動によって海に投棄されましたが、流れ流れてハルキディキ半島のアトスにまでたどり着きました。修道士たちがそれを見つけて取り寄せようとしますが、船を近づけようとするとイコンは遠ざかってしまい、どうしても引き上げることができません。そのとき一人の聖者がアトスの山から下りてきて、主のように海の上を歩いてイコンを拾いアトスに持って帰ったのです。
三本手のイコンといわれる生神女マリヤさんのイコンがあります。イオアニス・ダマスキノス、世界史ではダマスコのヨハネと呼ばれていると思いますが、は正教の世界では大きな功績のある方ですが、聖像破壊運動に反対しており、破壊を進める人から手を切り落とされてしまいました。ところが生神女マリヤはこれを見て不憫に思い、彼の手を元通りにしてあげました。彼は生神女に感謝して、イコンにもう一つの絵を描き加えました。
そういうわけで、イコンというのは昨日今日のものではないんです。