★イエスは本当に復活したのか? 『聖書思想事典』レオン・デュフール編 三省堂 「12人の使徒はイエスが死んで埋葬されたことに、彼らを失望に落といれる。復活をすぐに信じたのはヨハネだけである」

補足

「2世紀には復活は教理論争の焦点」に関し、コトバンクでいくつかの記述あり、おそらく「グノーシス派」との対立? 「グノーシス派は教父たちによって正統教会から排除されたキリスト教異端の総称 グノーシス派では、イエス=キリストはあくまで人間(肉)であって神(霊)の受肉はありえない ドケティズム 〈キリスト仮現論(説)〉2世紀以前の初期グノーシス派と神秘宗教から出た、キリストは真に肉体の姿をとったのでも,死の苦しみを味わったのでもなく,その受肉と十字架は単なる見かけ,仮象にすぎず,キリストが無罪であるのはこの世ですでに霊を所有しているからだと主張 90年ころ書かれた《ヨハネの第1の手紙》は,これを主張する者をアンチキリストとして排撃 キリスト仮現説 キリストはその生涯を通じて真の肉体をもった現実的存在者ではなく仮現的存在であったとする。キリストは肉体によらずに誕生,人間的な行為や受難も単なる外見にすぎず,その復活や昇天も無意味であるとする立場」 復活を否定していたのは、グノーシス派のようですね?

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ベストアンサー

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ようやくアクセスできました。返信遅くなり失礼しました。 グノーシス派に関しても回答いただきたかったです。 客観的な回答ありがとうございます。 復活に肯定的な方の回答は説得力が感じられませんでした。 ★マグダラのマリアは本当にイエスの復活を見たのか? について再度質問いたします。 またご回答いただけると嬉しいです。

お礼日時:5/22 21:52

その他の回答(9件)

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>『キリスト教神学事典』リチャードソン・ボウデン編 教文館 『顕現の場所、次第、目的などについて福音書の記述は大きく食い違っており、互いに調和させることも、一つの物語にまとめることもできないものである。それに、福音書にとって復活の物語は頂点をなすがゆえに、それぞれの福音書の神学的視点が反映されるものになっている。』(p.508) 『空虚な墓(それも四つの記事は大きく食い違っている)は復活を証明しないが、それが超自然的な使者たちによって解釈されるときには復活を指し示すものとなり、不連続における連続の要素を指し示すものとなる。……従って復活の主は自由に姿を現し、姿を消すことができると言われているのに、その復活の主の姿そのものは描写されていない。むしろそれは、死を越えても同一の存在であることを本人が主張すること(「まさしくわたしだ」)によって、そして言葉を続けて語られることによって伝えられる。この同一性は、死後も生きていることではなく、死を克服したことを明らかにするのであり、過去を捨て去ることではなく、過去を命のうちに取り込むことを明らかにする。』(p.509) 『2世紀には復活は教理論争の焦点であった。しかしそれは個人の将来の生の問題、および「からだのよみがえり」の様態についての論争となっていた。そして、「神にはすべてのことが可能である」との聖句が何度も引用されて、たとえ肉体が雲散霧消しているとしても、これを再び集めて復活させることができると論じられていた。』(p.509) 引用不備。引用しなかった部分にこの質問の答えが書かれている。おそらく他の事典も同じと思われるので再読を推奨。

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ナザレ村のイエスが復活などするわけではないのだが、 ユダヤ戦争でちりちりになったユダヤ人が再びパレスチナに戻り 民として復活する事を祈願して造られた話ではないかと思います。 それをキリスト教はお得意のイエスの復活の奇跡事にして童話として 信者に洗脳してるだけの事です。 マタイ福音書では、イエスと同時に聖人たちも復活してるのだが 文書を追っかけると、マルコ福音書に書き足しただけの蛇足で 地震が起こって墓が倒れて中から聖人が蘇ったとする悪乗りした 童話でどうして聖人と分かったのか、聖人っていったい誰が蘇った のか、聖人たちはその後どの様に行動したのか、さっぱり書いて いません。 こんな蛇足を書くと、マルコ福音書の編者も同じ場所にいながら これだけの奇跡を一言も書いていない事が浮き彫りになって しまいます。 マルコ福音書では、まだそれほど幼児童話にはなってないんだが マタイに書きたされた頃に、キリスト教の幼児化が進んだと言う事 ではないだろうか?

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この手の調査を幾ら調べても、○○の福音派の様なキリスト教会は 聖書の記事の詳細など一切論議しないんだから、信者に問い 詰めても全く無駄な事でしょ。 調査の結果編者の新たな主張が読み取れても、○○の福音派の 様な教会では迷惑千万な話なので、どの様な調査も一切無視 するだろうと思うよ。

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復活は信仰によってのみ知ることの出来る真理であり、 人間同士が話し合って決めることではなく、 議論によって正解に辿り着けるようなものではありません。 聖霊なる神が私たちの心の内に働いてくださり、 復活を信じる信仰へと導いてくださるのでなければ、 誰もがそれを疑うほかないのです。 なぜなら、人間には罪の力に引き摺られる弱さがあり、 啓示を正しく受け取ることができないほど、霊的に盲目だからです。 従って、このような質問は全く無味であると言わざるを得ません。 信仰のない人にとって、 聖書の記述は互いに矛盾すると感じられるかもしれませんが、 (そしてその中に何かを発見した気になるかもしれませんが) 自分も神に造られた存在でありながら神に背いて生きている という矛盾には気づかない、というのは実に大きな矛盾です。 4つの福音書は福音の真理を立体的に伝えていますので、 その記述は互いに緊張関係にありますが、 それを矛盾だと思い込むのは、 真理の総体としての福音を見ようとせず、 表面的な出来事の相違にばかり注目しているからです。 福音書は、その読者がイエス・キリストを信じ、 自分の救い主として受け入れ、救われるために書かれていますので、 「復活の歴史性を疑う現代の批評家を納得させる」必要などありません。 復活を信じたくないのでいろいろと屁理屈を言う人は大勢いますが、 真理はそれによって崩されるようなものではありません。 質問者様が例として挙げておられる事典は、 事典としての性格上、客観的な記述となっていますので、 信仰的な観点から真理を知るための役には立ちません。 復活は肉的な事柄ではなく霊的な事柄、 地上の事柄ではなく天上の事柄なのですから、 その真理を知るためには信仰が必要であり、 信じてみなければ復活のことは何一つ理解できません。

>信じてみなければ復活のことは何一つ理解できません。 グノーシス派の人々も信じていたのに、復活を否定していた。 これはどう説明するのでしょうか?

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>イエスは本当に復活したのか? イエスは本当に復活しました。 イエスの復活を信じないならクリスチャンとは言えません。イエスの復活は聖書の中であるいはキリスト信仰の中で最も大切なことの一つです。 >すぐに信じたのはヨハネだけである 復活というのは信じがたいことなのですぐに信じたのはヨハネだけだったというのも理解できます。すぐに信じたのはヨハネだけということは、多くの弟子たちはすぐには信じなかったけれども信じたことを示唆します。 >1.マルコの福音書では、頂点をなすのは復活の顕現でなく、墓に現われた天使の告知、主は弟子たちよりも前にガリラヤに行く。 2.マタイ福音書では、世の終わりまで弟子たちと共にいることを保証する。 3.ルカ福音書では、復活したが40日間にわたって弟子たともにおり、昇天していく。 4.ヨハネ福音書では、昇天途上にある主がマリアに対し使信を託す。 上の4項目は、おっしゃる通り違った内容のことを言っているのですが、 矛盾する内容のことを言っているのではありません。すべて両立します。