平将門は死後怨霊になったのは一体何故でしょうか。
平将門は死後怨霊になったのは一体何故でしょうか。
ベストアンサー
平将門が怨霊になったのは、ごく最近のことです。 将門は、明治以前の人にもよく知られていましたが、「大昔の暴れ者」というイメージで、天皇を自称して反乱を起こしたものの、最後は自滅したアンチヒーローと見なされていました。 ただ、都の貴族的な秩序に戦いを挑み、華々しく散ったところに、並の悪役とは違った爽快さがあることから、後世、将門は英雄視されるに至りました。しかし、そこに敗者の怨念を読み取る人はなく、祟りを説くこともありませんでした。 ところが、明治になると、将門の祟りということが、しばしば話題になるようになりました。 よく知られているのは、神田祭りが暴風雨のため中止になったこと、官庁の建設工事で事故が相次いだことで、戦後になっても、首塚を壊そうとして事故が起こったことなどです。しかし、当時の新聞報道等からすると、祟りというのも冗談半分で、本気で将門怨霊を恐れていた形跡はありません。 ここで注目したいのは、上の祟り譚には、それなりの背景があることです。 神田祭りが中止になる前、神田明神は、朝敵将門を祀るのは不適切だという明治政府の意向を受けて、祭神を少彦名神に変えていました。官庁工事も明治政府の命によるもので、首塚取り壊しは占領軍が指示したことです。 つまり、明治政府や占領軍という、当時の庶民には絶対に逆らえない強大な権力に対抗する存在として、将門は復活したわけで、それは敗者の怨念とは無縁の、明治以前の人が持っていた英雄将門のイメージです。 では、なぜ、現在、将門は怨霊と見なされているかというと、そのきっかけは昭和63年に公開された荒俣宏氏原作の映画「帝都物語」です。この作品は、明治以後、将門怨霊が関東大震災など様々な大事件引き起こすという設定で、大いに話題となりました。 そこから、怨霊将門のイメージが一人歩きを始めたもので、将門を怨霊に仕立てたのは荒俣氏だといってよいぐらいです。
質問者からのお礼コメント
お返事どうもありがとうございます。
お礼日時:5/18 20:50