キリスト教の『予定説』について考えたんですが・・・ これって要するに“結果に気を囚われすぎるな!今やるべきことに打ち込め”っていう解釈で間違いないですか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

牧師様 ありがとうございます。 私はクリスチャンではありませんが、結果に囚われすぎず、今を生きることに集中します。

お礼日時:5/22 9:31

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運命予定説とは、自分の意志や努力は無駄で、未来は最初から決まっている。って説では? キリスト教はそうではないね。 けどカトリックのような努力は正しいでしょうか? 単に単語を祈るだけで、隣人愛の行動が伴わないなら無意味だし。人間の経済の金が、救いにつながるわけではない。また今の世で満足せず、神の国を求めてるか? 神を愛し、人を愛する、行動を実践してるか、が大切でしょうね。

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違う。まずアウグスティヌスが提唱した「恩寵」あるいは「選び」という教理がある。 アウグスティヌスは若い頃あちこちの宗教を巡り歩き、結局真理に辿り着けなかったという経験から、「罪ある自分」が善を選び取れるとはまったく信じていなかった。彼がキリスト教の真理に辿り着いたのは、自分が見つけたではない、キリストが自分を見つけてくれたからだと信じていた。これが「選び」ないし「恩寵」。 プロテスタントはこの教理を、カトリックからの破門問題に適用した。カトリックから破門された者はミサに参加できない、つまり「救われない」。だがプロテスタントは、「救われるか救われないか」はミサに参加するか否かではなく、神があらかじめ決めているのだと反論した。救いは教会が決めるのではなく、神が決めることだと。 ここで「神が決めたこと」に対し、人間の自由意志がどれだけ応答するかどうかも(昔からの長い長い論争の蒸し返しだが)議論になった。人間は完全に堕落しているので、人間の自由意志は機能しない(だからこそ「選び」に対して真摯に応答せよ)というのがカルヴァンの二重予定説。キリストによって人間の自由意志がわずかでも回復したので、人間には「選び」に応答する責任があるというのがアルミニウス主義。