つまり分人とは、家族・友人・先生・バイト先とで別々のキャラを演じるかのように振る舞っているという話なのでしょう。
私は概ね賛成ですね。
というより、まず本物の自分などというものが存在しないと考えています。自分一人の時も、自分が納得するように自分の性格とやらを都合よく過去の体験から解釈しているのでしょう。いわば、自分向けの分人もいるのです。
傾向的に他の人との違いはあるでしょうが、少なくとも自分が思っているほど大抵の人間は自分のことを理性的に見てはいないと思います。
人格というのは、人間社会に生きていて初めて意味をなす機能です。仮に世界に人間が一人しかいないとしたら、その人は人間としての振る舞いなんて事を考えないはずでしょう。つまり分人は人間社会の中で習得していくものであるはずです。
例えば同じ学校の仲間の中でも、その場にいる友達のメンツによってこなす役割が違うことも多々あるでしょう。上手くツッコミを入れてくれる人がいれば冗談を言いやすかったり、逆に特別他に面白い人がいるときにはツッコミ役に回るなどです。
その場その場の状況でも少しずつ環境にチューニングした分人を使い分けるわけです。
空気を読むよりも作るようなキャラが特別強い人もいますが、その人達もそのルーティンが本人にとっては比較的楽だったからそうしているものだと思います。
いわゆる陰キャにしても、対人で失敗したくないから目立たないように徹するのもその場では本人にとって合理的なポジショニングです。
合理的なポジショニングを模索した結果が分人の獲得なのです。
その自分が獲得した分人としての実際の振る舞いの中から、自分がそう思いたいよう都合のいい部分だけを成長エピソードと解釈して、それを「本当の自分」と定義するだけなのでしょう。この定義を意識する思春期あたりから、自分らしい振る舞いみたいなことを気にし始めて分人も再調整されていきます。
そうした経緯だとすれば、「本当の自分」なるものを構成しているのは各分人の繋ぎ合わせです。
よって、分人は全てが本当の自分であると言って差し支えないでしょう。