承久の乱の時に丹後局はまだ健在で登場しますか?
承久の乱の時に丹後局はまだ健在で登場しますか? 女同士の戦いで北条政子が娘の入内の時にコケにされた恨みをはらす為にも京に攻め上って後鳥羽院と丹後局を捕らえて島流しにしろ、と弟にけしかけて消極的だった義時も徹底交戦を決意するとか?
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後白河法皇死後、九条兼美・土御門通親とともに丹後局は朝廷を三分するほどの権力者になっていた。 九条兼美は頑なに保守主義で時代に合わない政策を強引に推し進めたりしたために朝廷内で支持を徐々に失い、反対者たちは土御門通親や丹後局の元に集まった。 1196年、ついに大多数派となった土御門・丹後派によって九条兼美親子は失脚した。 丹後局は頼朝と親しかったが大姫の入内だけには消極的であった。 翌年、大姫は死去する。 その後、1202年までは土御門・丹後連立政権の天下であった。 1202年に土御門通親が死去すると、すでに譲位して上皇になっていた22歳の後鳥羽上皇が本格的に院政を開始した。 以降、丹後局は急速に権勢・影響力を失い、しばらくして朝廷を去り亡き夫・平業房の所領にあった浄土寺に住んだ。 詳しい時期や状況ははっきりしないが、1216年の2月か3月頃に丹後局は亡くなったとされる。 この事からも丹後局が完全に過去の人であったことが判る。 承久の乱がおこるのはその5年後の1221年のことである。
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