もし?の話ですが、 足利義輝ならば信長と上手く関係を築き室町幕府はまだ続いてたのでしょうか?

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足利義輝と織田信長が、上手く付き合えたとは、とても思えません。 義輝は三好家と和睦し、籠城していた勝軍山城を出て、京都に入って、相国寺に入り、そこから妙覚寺に移りました。 それは、永禄元(1558)年十二月三日の事でした。 義輝が追放以前に居た「今出川御所」は壊されていなかったようですが、義輝は妙覚寺を仮御所としました。 信長の上洛は、翌二(1559)年二月の事で、『言継卿記』には「異形(怪しい姿)のもの多し」と書かれています。 人数も、『信長公記』では八十人、『言継卿記』では五百人ばかりとなります。 一体、信長たちはどの様な格好をしていたのでしょうか! 信長が義輝と謁見したのは、この妙覚寺の仮御所だと考えられます。 「異様なもの」と義輝がそもそも合う訳がありません。 なお、同年には斎藤義龍も上洛しています。 長尾景虎は、四月三日、五千の兵を伴って越後を出発し、四月二十日に近江坂本に到着し、五月一日に参内しました。 義輝との謁見は五月下旬の事ですから、上洛してから意外と時間が掛かっています。 長尾景虎が帰国の途についたのは、十月初旬のことでした。 蛇足ながら、義輝の新御所の建設は、七月八日から勘解由小路烏丸室町で始まり、落成して、義輝が移ったのは翌三(1560)年六月十九日のことでした。

>永禄二年(1559年)に信長が上洛した際、信長が求めた門外不出とされた「鉄砲火薬調合書」を将軍・義輝は与えず、後から上洛した上杉謙信には与えています。 1150880298さん、信長が求めたという史料と義輝が上杉謙信に与えたとする史料のことを教えてください。 戦国時代の鉄炮(火縄銃)については、史料が少ないことから、歴史学者はまともに研究されません。 そこで、自分で調べているのですが、手詰まり状態で、是非とも、ご教示お願い致します。

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既出回答にあるように永禄二年(1559年)に信長が上洛した際、信長が求めた門外不出とされた「鉄砲火薬調合書」を将軍・義輝は与えず、後から上洛した上杉謙信には与えています。 信長は結構、根に持つタイプなので最初からうまくいかないかもしれません。 追記 今川義元は、将軍・義輝に運動し三河守に在国受領していますが、その直後から義輝と連絡を取らなくなり、義輝から再三何故返事をしないのか難詰されています。 以上から私は信長の上洛により、今川義元は将軍・義輝と連絡を取らなくなったと解釈しています。

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三好長慶と対立して、たびたび、衝突をしていた義輝が、 到底、信長と協調できたとは思えません。 義昭と同様、各地の大名に御教書を送って、上洛を促し、 信長と対立をしたと思います。