加藤清正が生きてたら大阪の陣でも豊臣方についていたと思いますか?

日本史 | 歴史2,601閲覧

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加藤清正が生きていたら「大阪の陣」は起きなかったでしょうし、あえて起きたとすれば「熊本の陣」でしょう。その時には清正は豊臣方についたでしょう。 加藤清正が作った熊本城には大天守と小天守の二つの天守閣があります。この理由について加藤清正は 「ひとつの天守閣が落ちても、もう一方の天守閣に籠って戦える」 と言ったそうですが、それは表面的な理由で、真の目的は他にあったのではないかと言われています。 真の理由とは、秀頼を迎え入れるための築城だったのではないかと言われています。 清正が熊本城築城を始めたのは、関ヶ原の合戦から三年後で、すでに天下は家康によって治められ始めています。もう一方の天守閣に籠って戦う必要はすでに無くなっています。 いずれ秀頼は大阪城を出なければならなくなる。その時の受け皿として、熊本城を築城しておいたと言うことのようです。熊本は京、大坂から離れており、天下の中枢から秀頼を離すことで、弱体化しながらも豊臣家は残しておいて欲しいという清正の願いが込められた築城だったそうです。 http://www.9tabi.net/kumamoto/kumamoto00/kumamoto087.html それでも家康が豊臣家を潰すと言うなら、自分が豊臣方について(というよりも、秀吉の恩顧に報いるために)楯になって戦う覚悟もあったようです。 そのために城の石垣は上に行くほど勾配が増す(武者返し)独特のつくりとなっており、熊本の町割りも複雑なものにし、外敵が侵入し難いつくりとしたそうです。この影響は現在でも響いており、熊本市内は交通渋滞が起きやすいそうです。(逆に大坂は商業の街で、流通の利便性が優先されているため、外敵が侵入しやすいつくりになっています。) 残念ながら清正は築城後間もなく亡くなり、豊臣家を守り通すことはできませんでした。 なお、熊本城がその威力を発揮するのは皮肉なことに、徳川幕府が崩壊した明治維新以降の西南戦争でした。 当時国内最強と言われた薩摩兵に2ヶ月近く包囲されても落城せず、西郷隆盛を敗走させます。 西郷隆盛は敗走しながら「わしらは官軍に負けたっじゃなか!加藤清正に負けたっでごわす。」と言ったそうです。

その可能性もあったから、おそらく毒殺されたと思います。

どうでしょうね? 豊臣側かもしれませんが、大坂の陣あたりになると徳川有利は動きませんよ。 要は、関ヶ原です。 世間では、西軍敗北の原因は小早川秀秋の裏切りと言う人が多いですが、私は清正と福島正則がボンクラだったからとしか思えません。 関ヶ原直前の時点で、天下分け目であると多くの人が理解していました。 なのに、清正は「三成憎し」の思いに凝り固まって東軍に味方した。 清正がボンクラだった証拠です。 家康も、後になって真田幸村や石田三成を褒めていますが、豊臣恩顧の武将のくせに豊臣を裏切ったやつらを毛嫌いしています。口には出しませんでしたけどね。

徳川か豊臣か、どちらかと言われたら加藤清正は豊臣につくと思われます。 もっとも、そんな人たちがいなくなっていたから家康は豊臣を滅ぼしたのですが。

その気があっても、福島正則と同様に徳川の監視のもとで身動きできない状況に追い込まれたのではないでしょうか。 秀吉公の死後はいち早く徳川家と婚姻関係を結んでいますし、家康公の征夷大将軍就任後は将軍の命に従って城普請等に積極的に協力しています。 死の直前まで豊臣と徳川の融和に務められていたようですが、他の豊臣恩顧の大名と同じく、豊臣方となる可能性は低いように感じます。