ここから本文です

三国志の魏・呉・蜀の実際の人口について (三国志に詳しい方に質問です。)

wai********さん

2009/8/1911:06:13

三国志の魏・呉・蜀の実際の人口について (三国志に詳しい方に質問です。)

三国志の魏・呉・蜀の人口は実際のところどの程度だったのでしょうか?

調べたところ後漢時代最盛期には戸籍に載っている人口で5000万~6000万人いたとされていますが、三国志が始まったころの資料には魏・呉・蜀すべてあわせても1000万程度だったそうです。

まさか戦争だけで人口が五分の一に激減したとは考え難いですから実際の人口は4000万~5000万だとして(後漢のころも全員把握はしていないだろうからこの予測も怪しいが)実際の人口は魏・呉・蜀にそれぞれどの程度配分していたのでしょうか? 三国志に詳しい方、お願いします。 おおよそで構いません。

なんとなく呉・蜀は魏よりも戸籍をとるのが難しいような気がするので実際の人口はもっと多いような気がします。

また、ついでですが戸籍に載っていない人々から税を徴収したり、彼らを兵士にしたりすることは可能だったのでしょうか? これも知りたいです。

閲覧数:
10,729
回答数:
2
お礼:
250枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

fro********さん

編集あり2009/8/2119:39:05

ご質問にあるように、
後漢の人口:47,892,413人、戸数:9、336,665戸
(中国人口通史(4):東漢巻-中国人口通史叢書)

と細かい数字がでているのも、
人頭税を把握するための結果(140年)であり、
ある程度の信憑性はあるかと思います。

この数字を元にすると、
【魏】:
(司隶.豫州.冀州.(六允)州.徐州.青州.凉州.井州.幽州)
人口:28,931,451人(60.41%)/戸数:5,120,149戸

【呉】:
(楊州.交州.荊州6郡)
人口:11,718,934人(24.47%)/戸数:2,691,259戸

【蜀】:
(益州)
人口:7,242,028人(15.12%)/戸数:1,525,267戸

人口比率については、魏60%、呉25%、蜀15%は、
総人口の増減はあっても、それほど変わらないんじゃないでしょうか。

三国時代の戸籍登録人口は、
ご質問にもあるように、
魏が4,432,881(西暦263年)、
呉が2,300,000人(西暦280年)
蜀が940,000人(西暦263年)と、
三国合計でも戸籍登録人口は767万人にすぎません。

魏の曹操は、屯田制を牽いたのは有名ですが、
軍屯田とは別に、民屯田制も作っています。

民屯田とは、地方から流れてきた戸籍のない流民を集め、
戦乱で荒れて、持ち主がいなくなった農地や農牛を貸し与え(民戸)、
官牛を貸したものからは、収穫量の6割、私牛を持つものは5割を徴収し、
それを、軍需物資として、運搬を含めて徴用したり、
佃科徴収(一般財源)にする制度です。

軍需物資も貯蓄分も含めて納めなくてはならないでしょうから、
耕作面積から考えて、
恐らく戸籍人口の2倍は戸籍のない耕作人はいたのではないでしょうか。
これに、子供や老人の人数を加えれば、
実数は、2500万人~3000万人くらいかと推測します。
それに後漢の人口比率を掛けて、
魏:1800万人
呉:750万人
蜀:450万人
を最大値と見ます。

戸籍の載っていない人間からの徴収は、
民屯田などの制度上、
正規農民からからの税率10%以上の
あがりの50%程度を納めさせるのですから、
大きな財源になりますので、行なっていたと思います。

ただ、兵士の徴兵については、
その実働人数をもとにして兵站の計画を組み、
食糧供給を滞らないようにするため、
1戸あたりの徴兵人員を決定する必要がある以上、
どこの馬の骨かもわからぬ流民をその人数にいれたりするでしょうか。

《追記》
kumayamaoさん。
ご説、まったくもってご尤もです。

ただ、青州兵(黄巾賊)一党は、いわば身元の確かな(?)流民集団です。
太平道という、大多数の農民には緊急避難的な思想とはいえ、
まとまった考え方を持っています。

青州兵精鋭30万人が曹操の軍門に降る192年の状況を見ると、
当然、魏の名前も形もなかったわけで、
青洲兵は、曹操個人に降ったと考えていいと思います。
青州兵と、その家族100万人を庇護する代わりに、
曹操に仕える。
所謂、曹操が直轄する「私兵」であり、
その後の「曹操軍(正規兵)」とは分けて考えるべきではないでしょうか。
軍屯田としての役目は担ったでしょうが、
正規兵でない以上、戸籍には載らなかった可能性が高いです。
その家族は、
休耕田を耕すため、地に根を張るので、戸籍には記載されたでしょう。

曹操が亡くなって曹丕が皇帝になった時点で、
青州兵は解散し、故郷に帰ったとされます。
正規兵では考えられない行動で、
曹操にのみ忠誠を尽くす契約があったように考えます。

《追追記》

魏の戸籍人口が200年頃なのかは解りませんが、
263年時点の440万人と仮定し
1戸5人で換算すると約90万戸、
『漢書』地理志にある平帝元始2年の国勢調査によると、
一戸平均の耕作面積は約70~80畝ですので、6750万畝。

魏の良質の屯田で5斛(蜀で3斛)といわれるので、
3億3750万斛
田の保有率・耕作割合を8掛けにして、
税率10%(後漢の税率)で、2700万斛。

1万の兵を1年維持するのに60万斛必要なので、45万人。
(『魏書』鄧艾伝10万の兵の5年分の食糧は3000万斛)
動員兵力は1割といわれてますので、40~50万人程度。
数字の羅列になってしまいましたが、
この数字に青州兵の数が含まれているとは思いません。

青州兵を私兵として戸籍に載せず、軍屯田につかせ、
自給自足させれば、仮に最大数30万人の青州兵の兵を、
魏国民440万人で負担させる必要はなくなります。

青州兵の素行が悪く、苦情が絶えなかったとの話もありますので、
正規兵としての軍規が備わっていたとも思えず、
やはり、彼らの存在は特別であったのではないかと推測する次第です。

waiwaiice4423さん、あなたのスペースで、
二人で勝手に盛り上がってしまって申し訳ありません。

kumayamaoさん、字数制限オーバーで残念ながらこれ以上返信できません。
どこかで是非、再び議論したいですね。

質問した人からのコメント

2009/8/23 01:08:24

降参 やはり魏の国力は蜀・呉を圧倒していますね、お二人ともありがとうございます。
私がいかに三国志について勉強不足なのかを改めて再認識しました・・・

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

kum********さん

編集あり2009/8/2112:23:36

把握していない人口についてははっきりとしたことは言えないですね。把握して
いない人と言うのは基本的に流浪状態ですから、把握しづらいのです。

分かることと言えば戦乱のある地域にはこう言った流浪の民は拠りつかない、
と言うぐらいでしょうか。群雄割拠の頃(200年ぐらいまで)は北方は各群雄が
争っていたので南方へ避難していた人が多く、逆に三国鼎立後は北方が一番
安定していたのでそちらへ帰っていく人が多かっただろう、と言うぐらいでしょうか。

三国成立後の把握人口ですが

魏400万ちょっと(260年頃)
呉230万ほど(280年頃)
蜀94万(265年頃)

と三国合わせても700万強程度しか把握できておらず、三国とも之だけ見るとかなり
脆弱な国家と言うことになります。ただし、後に魏の後を継いだ晋が全土を統一した
時は人口が1600万とほぼ倍まで把握人口が増えています。

このからくりは魏において大規模な屯田民政策が行なわれていましたが、そのことと
深く関係があると思います。屯田民は魏国にとっての私民のようなものですから、これ
は人口に入っていなかった可能性が高いのです。つまり増加900万の内の大部分が
魏国の屯田民であったと仮定すると、戸籍上は見えていないですが、魏の把握人口
は1000万を越えるほどになっており、呉や蜀を圧倒する力を持っていたことになるかと
思います。

魏はこの屯田民から主に税を徴収しているので、国力自体は相当なものがあったと
思います。呉蜀も魏の成功を参考に同じ事をやっているようなのですが、やはり規模
や開墾できる面積などを考慮すると魏の優位は揺るがないですね。

兵制については魏は兵戸制と言って兵士専門の家族を登録すると言うやり方を行なって
います。他の国も同じ事をやっています。当然戸籍に載っていない人を募集したりもして
いますので、可能です。

追記:frogman03544さん
例えば曹操は青州黄巾を自勢力に取り込み、その中の精鋭を軍隊としています。
彼ら黄巾族の連中は言わば食い詰めた流浪の民の集団のようなものですから
当然戸籍から抜け落ちている可能性が高い人達の集団、と言う事になります。

こういった人物達は兵として登録後は当然実数把握されているでしょうが、徴兵の
際にはそういった選別がわざわざなされているか、となった場合、そこまで厳密に吟味
しているとは思いません。とにかく働き手はいくらでも欲しかった時代でしょうから。

まぁ言い方が悪いのかな、徴兵ではなく、募兵ですね。流浪の民は募兵にて登録
し、実数把握するようにしていってる、と言う形だと思います。

追記の追記
確かに曹操が死んだ時のエピソードは知っています。しかしこの時は青州黄巾が曹操
に降ってから25年以上、代替わりなどもしている状況です。また彼らが降伏した時から
魏武の強が始まった、とあるように降伏時に編成した兵数が数百数千の規模でない
事もほぼ間違いないでしょう。

それら数万のもの私兵を数十年に渡り(代替わりも恐らくしている状況で)、登録せず
に管理し続けられるものでしょうか。私は彼らも普通に兵としての登録はされ、一般兵
の中に吸収されていったと見る方が自然だと思います。

それに曹操が亡くなった時に去っていった青州兵が全員去ったとしたらそれこそ魏にとって
は数万規模の精鋭が一気に失われることになり、常識的に考えてそんなことを認めると
は思えません。

私見ですが、青州兵の中でも曹操と特に結びつきの強かった曹操の親衛隊だけは曹操
直属の兵、と言う事で彼らが故郷に帰るのを許したのではないでしょうか。(規模は数千
レベルぐらい?)他の青州兵は普通に常備軍として登録され運用されたと見る方が自然
かと思います。

それと青州兵が曹操との個人契約だったからと言って、それが他の流民は募集しない
と言う理由にはならないと思います。むしろ流民の集団を兵として雇っている事実から、
他にも流民を募兵した可能性が高い、と見る方が自然かと思います。

兵戸制で確か寡夫にわざわざ妻をあてがったりとかしてたと思いますが、こう言うのも
流浪の民は己が生きていくのがやっとで独り身の人物が多いから、それを解消させ、
代々兵を供出させるために行なった措置、と言う風にも見れないでしょうか。

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる