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王政復古の大号令の際、岩倉具視と山内容堂が 徳川慶喜の処遇を巡って対立したこ...

ali********さん

2009/8/2613:26:58

王政復古の大号令の際、岩倉具視と山内容堂が
徳川慶喜の処遇を巡って対立したことは有名ですが、
土佐藩兵も御所の武力封鎖に協力しています。
山内容堂は岩倉と意見が異なるのどうして協力したんでしょうか?

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2009/8/2615:10:47

幕末は、もう上の命令を下が素直に聞く時代じゃないのです。
幕府においてもそう。将軍慶喜の言うことなんか誰もまともに聞きゃしない。
土佐藩においてもそう。藩主容堂の言うことなんか誰もまともに聞きゃしない。
全部の藩がそうだったわけでもないが、そういう傾向は西南雄藩に顕著でした。
なお、佐幕⇔倒幕、開国⇔攘夷、穏健⇔過激の組み合わせは単純に8通りあるわけで、藩内が一つの論にまとまった藩はほとんどないのです。藩論がまとまったところで藩士は必ずしも藩主の命令どおりにも行動していませんでしたし、情勢の変化によって、ある派閥が優勢になったり、ある派閥が主導権を握っていただけです。

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mit********さん

2009/8/2614:49:04

土佐藩はその成立からも分かりますが、徳川幕府に対しては大きな恩を感じています。
土佐藩(上士以上)の基本的な思想としては佐幕なのですが、当時の知識階級の常識としては勤王が流行でした。なので、山内容堂は佐幕で勤皇という矛盾する思想を持っていました。

なので、あくまでも倒幕(それも武力による絶滅)思想だった薩長系の公卿とは意見が合わないのは必然です。山内容堂としてはもはや瓦解する徳川幕府を助ける事はならずとも、徳川家は助けたかったですが、ついにそれは叶わず武力衝突が起きます。

御所の武力封鎖(文章の流れから鳥羽伏見の戦いと理解しました)は容堂自身は許可しませんでしたが、当時、乾退助以下主だった上士が過激な勤皇色に染まっていたために、その停止を振り切る形で参戦してしまったのです。
つまり、容堂自身は倒幕に関しては関わりたくなかったというのが本音でしょうね。周りが勝手に暴走していったと見るのが正解のようです。

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