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『純文学』と『大衆小説』の違いが分かりません。 今まで『純文学』というのは...

tnh166さん

2009/9/1710:57:26

『純文学』と『大衆小説』の違いが分かりません。

今まで『純文学』というのは国語の教科書に載っているような
川端康成や太宰治が書いた小説のことかと思ったました^^;

でも山田詠美さんや小川洋子さんも純文学とよばれる
作品を書いていることを知りました。

東野圭吾さんは『秘密』や『手紙』などミステリー以外の
ものも書かれてますが、大衆作家だと聞いたことがあります。

『純文学』と『大衆小説』の決定的な違いってなんですか?
受賞した賞によって決まるのでしょうか!?

本当に本が好きな人は、作品を読んだだけで『純文学』か
『大衆小説』か区別がつくのですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

figherrockさん

2009/9/1711:36:08

純文学というのは純粋な芸術を指向するもので、大衆小説というのは多くの人に読んでもらえる通俗性だったりエンターテインメント性のある小説ってことですかね。ミステリー小説とか、ホラー小説とか、家庭小説とか、青春小説とか○○小説とよばれるのは「たいがい」大衆小説だと思います。逆に、はっきりと区別できない深みのある小説は純文学の可能性は高い気がします。
芸術性か娯楽性かってところですかね。まあ、でもどんな小説にだって深みはあると思いますし、実際読んでみなければわからないと思います。あくまで辞書的な意味で、実際そんなにはっきりとこれはこっちと分けられない気がします。どっちの要素も含んでる作品はいっぱいあると思います。
東野圭吾さんは「大衆作家」だから作品が「大衆小説」なのではなく、「大衆小説」を書くことが多いから「大衆作家」なわけで、だから例外があってもおかしくはないと思います。
何はともあれ、曖昧な基準だと思います。特に現代の小説は。純文学であるはずの芥川賞受賞作だって、選考委員の石原都知事が「通俗小説」だって批判してましたし。
読んでその人がどっちに思うかはまちまちじゃないかな。「区別」というほどはっきりしてないと思います。
あと最後のご質問ですが、むしろ読まなきゃ何もわかりませんね。表紙や帯にこう書かれてあっても、実際読んだら案外違う印象だったってことがいい意味でも悪い意味でもありますから。
僕が読むときは面白きゃどっちだっていいじゃねえかと思っちゃいますね(笑)。

質問した人からのコメント

2009/9/18 11:10:03

感謝 皆様回答ありがとうございました!
『純文学』と『大衆小説』の違いの定義は理解できたような気がします。
後は読んだ私がどう感じるかということですね。
BAを選ぶのにとても迷ったのですが、figherrockさん の
>面白きゃどっちだっていいじゃねえかと思っちゃいますね
という言葉に妙に納得してしまったので、BAとさせていただきました。
どの回答もとても参考になりました。ありがとうございました!

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ベストアンサー以外の回答

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編集あり2009/9/1808:14:41

つきます

社会通念というか共通概念を前提に書かれるのが大衆小説
なのでジャンル小説、エンタメ小説は全部ここに包摂されます
ミステリーというのもある種の共有概念ですよね?
たとえセンセーショナルな内容であっても、前提としている人間理解や非センセーショナルな世界に対する共通認識を利用しているという点ではある枠組みを前提とした上での小説なのです。中身の問題ではありません。
よって読者はある安心感の上に読み進められる。自分の思考の依拠するところを壊されることがない。
なので多くの読者の共感や関心を得やすい。
なのでベストセラーはおおむね大衆小説と考えて良しです。
また、結果内容重視なので言葉を意思伝達の手段として透明な存在としています。

一方の純文学は認識の彼岸というか大衆小説の依拠する共通認識をそもそも疑うところから入るものです。
なのでそれはときには独りよがりで恐ろしく退屈だったりする。なので一般に純文学は売れない。
また、言葉が言葉として何かの伝達手段である以前に音や記号のような存在ではないかということを意識的に書いています。

なので普通に純文学か大衆小説化の区別はつきます。
どっちがいいかというのはナンセンスです。いいものはいい。

その意味で東野圭吾は大衆小説作家だがたとえば保坂和志は明らかに純文学作家
しかしながらどっちかよくわからないのもいる。たとえばナボコフなんかは面白くて大衆性もあるけど言葉の魔術として呼ばれるような難解な言葉の使い手でもある。
純文学系なんでしょうが村上春樹の本はベストラーになる。

なので厳密には実際のところの区別は微妙。
文學界・新潮・群像・すばる・文藝あたりに載ってるのが純文学、売れてるのが大衆小説、と考えるくらい。

受賞した賞も目安の一つ。でもなんでこの人がこれ?的な結果も多くこれまた微妙。

結論、純文学と大衆小説の区別は明確ではないが、分けろと言われればある程度の自信を持って分けられる、そんな感じ(笑)

rhps2008さん

2009/9/1803:34:47

ちょっと違うかもしれませんが、佐野洋子さんがエッセイの中で、友人の言葉として「自分がどこにいるのかわかってる人がもらうのが直木賞で、自分がどこにいるのかわかんない人がもらうのが芥川賞なのよね」と書いてました。妙に納得しました。

kybms830さん

2009/9/1713:59:36

ん?と思い深く考えれるのが純文学かと。

scrumside5さん

編集あり2009/9/1711:57:52

読者を楽しませることを第一の目標とした小説が
「大衆小説」です。

作者の頭の中にあることを
いかに効果的に、いかに美しく(場合によっては醜く)表現するか、
を目的に、芸術として書かれた小説が「純文学」です。
純文学の中にも、片手間に読者にサービスしてくれる作品はありますが、
それが目的ではないので、読者がほったらかしにされる場合もあります。

大衆小説を読んで楽しむためには、
作者に手を引かれるままに、
用意された仕掛けを素直に受け入れて楽しめばいいのです。

純文学を楽しむためには、自分なりに考え工夫して、
読者が自らその作品の楽しみ方を開発する必要があります。
そのぶん感性をフル回転させなければなりませんが、
うまくいけば、大衆小説よりも
さらに深い感興を得ることが可能なはずです。

その区別は、たいていの場合、読めばわかります。
ストーリーの中に作者の「案内」が見え隠れして、
「このように読んでください。ここを楽しんでください。
さあ、ドキドキしてきましたね、その調子です。
どうです、ここはびっくりしたでしょう。楽しんでいただけましたか?」
などと、作者によるサービスのアナウンスをはっきり感じる作品は、
大衆小説と判断して、そのまま流れに乗って楽しむことになります。

そのような作者による手引きが感じられず、
ストーリーや個々の文章表現が丹念に作り上げられて
ただそこに置かれている、と感じる場合は、
純文学であると判断して、自分で主体的に考えながら
「工夫して読む」態勢をとります。

ただ、三流、四流の書き手の作品には、
明らかにエンターテインメントの体裁をとっているにもかかわらず、
まったく読者のことを考えずに書かれているものもあります。
何をするべきか、まだ作者自身が理解できていないような段階です。
こういう場合は、とにかく著者が未熟であると判断して、
本を放り出すか、短時間で斜め読みする態勢に移行し、
二度とその著者の本は読まないということになるでしょう。

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