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織田信長は、寄親、寄子制度を採らなかったのですか。

rit********さん

2010/4/613:50:00

織田信長は、寄親、寄子制度を採らなかったのですか。

今川氏の寄親、寄子制度が有名ですが、
織田信長の軍制は、この制度を採用しなかったのですか。

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gmi********さん

2010/4/1313:00:14

信長の軍制の特徴は、仕えている家臣の次男や三男など、
基本的に「部屋住み」と言われる者たちを直属的に統制していました。

家を継ぐのは長男でしたが、それ以外の子どもたちは、
極端に言えば、手持ち無沙汰で家においても補助的役割です。

その者たちを馬廻りや小姓として、手の届くところに置いたわけです。
実際、信勝(信長の弟(信行))との家督争いの時にも、信長軍の主力は彼らでした。

そして彼らが成長するにつれ、赤母衣衆・黒母衣衆というかたちで、
ますます力を強めていきます。
後々、織田家の中核を担う前田利家や佐々成政なども長男ではありません。

おそらく信長は、寄親・寄子制度も取り入れていました。
林通勝-前田家 というように。
しかし、それ以上に信長は生え抜きの若い力溢れる家臣を求め、
その集団が凄まじく強かったのです。

信長と他大名の力の差というのは、その点からも垣間見ることができるでしょう。

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編集あり2010/4/1011:36:08

織田家だけでなく、戦国大名だけでなく、ほとんどの武士は、寄親・寄子 制度である。封建社会では、こういう軍制しか採用できないからだ。
封建制度では、
名主 田中氏の下人を、田中氏から離して黒木氏の配下に回すことには、すごく抵抗がある。
黒田家の弓兵を、坂田家の弓兵に加える事には、すごく抵抗がある。
だから、兵はその主人とともに、主人よりも上級の武士の部隊となる。
これを、寄親・寄子と言う。上級の武士が寄親、その部隊が兵とその主人とともに寄子となる。

義経の軍を、「山陽方面軍」などとは言わない。義経の軍も単なる寄親・寄子なのだ。
「方面軍」とやらは、おそらく堺屋太一氏の発した間違いである。
戦国大名の一家臣の動員力は、せいぜい数百名である。しかし、大名とは別行動する、数千名の部隊はよくある。大名とは別行動する数千名の部隊は、寄子が加わっているからだ。

編集あり2010/4/700:41:33

1577年以降の織田軍団は戦闘地域別に4つのブロックに分け、それぞれに最高司令官を置き、それを信長が統率するピラミッド型に再編成しています。

信長は寄親・寄子制度ではなく、この各司令官の許へ信長の家臣を与力(加勢として附属する家臣)と付け、さらに司令官の行動監視までさせています。

・北陸方面軍ー柴田勝家

与力ー佐々成政、前田利家、不破光治

・近畿管領軍ー明智光秀

与力ー細川藤孝、筒井順慶

・中国方面軍ー羽柴秀吉

与力ー蜂須賀正勝、竹中重矩、宮部継潤

・四国方面軍ー神戸信孝

与力ー岡本良勝、三好康長

さらに関東管領軍として滝川一益を司令官とし、上野衆、信濃衆を附属させています。

このように各軍団に対してそれぞれの担当地域を決めていることは、近代的な軍隊組織であり、現在でいう方面軍です。この方面軍思想がヨーロッパで誕生するのはずっと後になりますので、いかに信長が先見性を有していたということがわかります。

oos********さん

2010/4/615:21:21

織田信長も使っていましたが名称が違うだけです。
例 寄親 柴田勝家 与力 前田利家
寄親 羽柴秀吉 与力 蜂須賀正勝

などです。

メタスさん

2010/4/615:00:42

寄子というより、与力はありました

柴田勝家に前田利家・佐久間盛政・佐々成政・不破光治
羽柴(木下)秀吉に蜂須賀小六・樋口直房・宮部継潤・
荒木村重に高山右近・中川清秀

など

(-o-)/

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