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「山南敬助切腹」について

nan********さん

2010/10/1922:28:40

「山南敬助切腹」について

詳しく教えてください(わかりやすく…)

お願いします!!

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hag********さん

編集あり2010/10/2019:09:37

では、永倉新八の「顛末記」より抜粋します。

勇が新選組を掌握して以来、やや山南をはばかり、疎んじるかたむきがないでもなかった。ー略ー 敬助は、伊東の議論に傾聴し、ことごとく敬服してついに一つの黙契が出来た。ー略ーこうして、思想の相投合する両人が、その後、しばしば談論を重ねると聞いて近藤はさらに猜疑の目を持って彼らを迎えるので、山南はついに意を決し、脱走をはかって江州の大津まで落ち延びた。
近藤はこれを聞くと心中ひそかに喜んで、山南が法令に背くの故を持って士道の上から切腹せしめんと沖田を追跡せしめ、難なく山南を召し取った。

永倉新八は新選組隊士ではありますが、「顛末記」は多分にフィクションが含まれています。例えば、七卿落ちでは坂本龍馬も甲冑で身を固め、七卿と共に十津川へ引き上げています。
子母澤寛氏の本にも山南脱走について書かれていますが、こちらもフィクションを含んでいます。
しかしながら、子母澤氏の本でフィクションとされていた新選組美男五人衆は後年になって、隊士名簿が出て来て皆、実在の人物であったことが判明した経緯もありますので、山南脱走もフィクションであると断定は出来ません。
西村兼文は西本願寺の寺侍で実際に新選組と接していた人ですが、西村の「始末記」では、池田屋事件の酷い創作の中で、山南も戦っています。
「始末記」は多分に聞き書きの為、屯所移転前の話は信用出来ません。山南切腹の話ももちろん移転前です。
山南が屯所移転に反対したという理由はわたしは西村の作り話だと思います。
三南三郎を出汁に近藤批判をしたかったのでしょう。西村は新選組を酷く嫌っていました。
比較的信憑性の高い「浪士文久報国記事」や「島田魁日記」には山南の脱走切腹については一切触れていません。総長という立場の人間の切腹について書いていないのは、敢えて触れなかったとしか思えません。
脱走の有無は別として、全てに共通しているのは近藤土方との意見の違いという点ですか。山南は何もかも謎です。全ての本が推測だと思って間違いないでしょう。
新史料が出て来ない限り真実は永遠に闇の中です。

因みに岩城升屋事件は場所、日時不明です。『維新史蹟図説』には加納惣三郎という架空の人物が登場します。

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min********さん

2010/10/2621:51:01

個人的には、文武両道な山南さんを扱いづらく感じていた隊士(上の立場の人物)からのけ者みたいな感じにされて、
新選組での居心地が悪くなって、疲れ果てて(少しノイローゼ気味だったとも言われている)脱走したが、
沖田さんに発見されて、連れ戻され、
結局、隊の規則に反し、しかも総長と言う立場だった為、見逃したら隊の規則が緩くなる事になるので、
切腹を命じられたと言う感じです。

d73********さん

2010/10/2001:17:54

『山南敬助の切腹』は慶応元年(1865年)2月23日、新撰組総長だった山南敬助が「屯所脱走」と言う隊規違反により切腹した事件だが脱走を含め不明な点が多い。

西村兼文「新撰組始末記」、子母澤寛「新撰組物語」でも山南敬助の死については"脱走→切腹"と言う書き方をしているが、西本願寺の寺侍だった西村兼文が西本願寺に戻って来たのは新撰組が西本願寺に屯所を移転した後で実際に山南の切腹現場を見た訳ではない。
山南の脱走、切腹が一番詳細に書かれているのは子母澤寛「新撰組物語」だが、書かれている内容の割には脱走の原因があやふやな事、脱走後の山南の行動が不自然な事から子母澤の創作との説もある。
最近では山南の脱走そのものが疑問視されている。
ちなみに永倉新八の「顛末記」には脱走の話は登場しない。

切腹については西村兼文は西本願寺への屯所移転が原因としている。
子母澤寛は土方歳三との確執を書いているが、どちらも切腹の要因としては少々弱い。
他の人が「岩城升屋事件」での山南の負傷の事を言っているが、「維新史蹟図説」によれば「岩城升屋事件」が起きたのは文久3年(1863年)7月、同年8月18日の政変(俗に"七卿落ち"と呼ばれている)に山南も参戦しており(朝廷よりの報償金名簿にも名前が乗っている)、同年9月18日の芹澤鴨粛正にも参加したと言われている事から再起不能になるほどの負傷ではなかったと思われる。
永倉新八の「顛末記」では伊東甲子太郎と山南敬助が何事か企んでいたとされているが切腹の原因については書かれていない。

いずれにしても不明な点が多く想像の域を出るような説話は今の所は無い。

mei********さん

2010/10/1923:44:40

山南は北辰一刀流道場で剣を学んでいたが、たまたま他流稽古で訪れた天然理心流柳町道場で近藤に竹刀を弾き飛ばされ門人となった男です。

北辰一刀流を学んでいたため山南本人は尊皇攘夷の思想が厚く、新選組結党後の長州に対する幕府に対して批判的な感情をもっていた。

加えて隊内で土方との確執があったと言われている。
山南はそれまでは土方とおなじく副長という立場で、隊への指揮権などの権限を持たされていたが後に「総長」という名ばかりの名誉職に棚上げされることとなり、それを強行した土方に対して憎しみを持つようになったとも言われている。

(余談ですが土方とは仲が良かったという説もあります。土方が実際に山南に送った俳句が伝わっていますし。)

さらに山南が憎んでいた幕府が新選組を正式に幕臣として取り立てる動きが出てきます。

さらにさらに、新選組が隊の屯所を西本願寺に移すことに決定します。西本願寺は尊王の心が厚く、そのことにも反発を感じた山南はついに脱走を決意します。

堂々と「江戸に帰る」と置手紙をして脱走した山南ですが、東海道の途中で追っての沖田に追いつかれます。
そのまま捕縛されることなく、山南と沖田は宿場に枕を並べて寝て、その次の日に帰隊しました。(沖田と山南は仲が良かった。)

脱走した山南に対しては局中法度の適応により切腹が申し渡されます。

切腹の前日、営倉に入れられていた山南に、島原の馴染みの芸者・明里が袂別を告げにやってきます。
二人は窓の格子越しに手を握り合い、別れを告げたそうです。。。

翌日、切腹しました。

bre********さん

2010/10/1922:31:09

近藤さんと伊東さんの板挟み状態から脱却すべく、とりあえず脱走という
体で局中法度違反により切腹。

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