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何故、薩摩藩の琉球侵攻は徳川幕府に容認されたのでしょうか? 当時、幕府が鎖国...

ky0********さん

2010/11/1814:15:09

何故、薩摩藩の琉球侵攻は徳川幕府に容認されたのでしょうか?
当時、幕府が鎖国、銃の製造禁止等、各藩の力を削ぐ事に力を入れていました。

明との密貿易に繋がる琉球侵攻が何故、容認されたのでしょうか?

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kun********さん

2010/11/1815:09:10

当時の中国は周辺諸国に対して貢物を出させその見返りとして恩恵を与える(品物)朝貢貿易とゆう形をとっていました。これはいわゆる周辺諸国は中国の属国であるとなります。
これを嫌った幕府は琉球との中継国を通じて対等の立場を作るため薩摩藩に侵攻する許可をあたえたのです。しかし江戸と遠く離れた場所なので監視の目が行き届かず薩摩藩の密貿易を横行させる結果になりました。
廃藩置県以降琉球は日本の領土であると宣言した時中国はそれまでの朝貢貿易を続けていた関係から日本に琉球は中国の領土であると返還を求めています。

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1〜1件/1件中

2010/11/1814:58:28

薩摩藩の琉球侵攻は1609年です。まだ徳川幕府は磐石の権力を固めたわけではありません。まだ大坂の陣も起きていないのです。大坂に豊臣秀頼が頑張っているし、加藤清正や福島正則らの豊臣恩顧の大名も広大な領地を持っています。徳川幕府が発足したといえど、まだまだ支持基盤は脆弱です。まかりまちがえば、また豊臣に逆戻りしかねない情勢です。家康にすれば少しでも頼りになる自分の味方を増やしたいのです。また薩摩藩の領地は火山灰地が多く稲作だけでは経営が成り立たないという事情もありました。

幕府が諸藩の勢力を削減しようと考えたのは、もっと後の時代です。豊臣が滅亡し、加藤清正が死去し、福島正則が改易されて、徳川一極集中体制が確立された三代将軍家光の時代になってからなのです。島津氏は豊臣恩顧でもないし、徳川譜代でもない、中間勢力といったところです。島津氏を豊臣支持に追いやっては大変なことになります。島津氏の琉球侵攻を認めれば、島津氏は徳川に感謝して徳川支持に回るでしょう。だから、それは家康にとって当然の判断であったのです。

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