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神父様の話に反発の念を抱く自分。 最近教会に通い始めた者です。イエス様も聖書も...

the********さん

2010/12/2611:43:33

神父様の話に反発の念を抱く自分。
最近教会に通い始めた者です。イエス様も聖書も好きですが、 神父様が話される「この世は父なる全能の神が作られた」という類いの話に反発(「嘘、この世の始まりはビックバン」等)を抱きます。信仰に疑問を感じます。
神父様に人格的不信感はありません、また落ち着くとやはりイエス様をお慕いしたい・・・と思います。
これって何なんでしょう?元々の気持ちが信仰ではなく「憧れ」でしょうか?
理系思考(生物学専攻です)なのでしょうか?
カトリックを変えたくはありません。勉強会にも来年は残念ながら都合上出られないのです。

補足矛盾する気持ちに板挟みされ苦しいです。

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ign********さん

2010/12/2820:06:39

その「矛盾」を乗り越える力が信仰です。カトリックを変える必要など無いでしょう。教会を変えたところで貴方さまの苦悩は変えられないでしょう。信仰は理屈ではなく、まさに「イエス様をお慕いしたい」という思いです。貴方さまは「信仰に疑問を感じ」ておられるとのことですが、信仰ではなく、聖書の言葉(御質問の内容では天地創造のこと)、それにもとづく神父様のお話、キリスト教の教理というものへの素朴な疑問です。その疑問は信仰からくるものではなく、信仰のパトスを妨げる知性の働きからきているものです。無用な働きなのです。そこに葛藤が生じます。聖霊の働きを感じイエス様を信じる意志と、科学的常識にこだわる知性との葛藤です。これはクリスチャンの多くが経験し通り抜けなければならない試練です。これを乗り越える方法はただ一つ、その「矛盾」や「葛藤」を抱えている自分をそのまま、貴方さまが「お慕いしたい」と思っておられるイエス様にゆだねることです。それが信仰です。貴方さまの元々のお気持ちが「信仰」なのか「憧れ」なのかといった問題もそこではっきりするでしょう。苦しんでいる現実の自分をまるごとイエス様にゆだねて判断停止して黙想し、主に祈りを献げましょう。そして聖霊によって悟るのです、聖なる無知を。苦しい時はつねに仰ぎましょう、十字架の主イエスを。私たちのために、貴方さまのために苦しみを身に受けて血を流し、尊い命を献げて下さった深き恵みを。そうすれば知性の働きを超えて受け入れられるはずです。矛盾のままに、疑いあるままに受け入れられるはずです、聖書が示す真実を。神父様の言葉を。たとえ科学的常識と合わなくたって、十字架の前ではそんなことはどうでもよくなるはずです。たとえ貴方さまが科学にもとづいて聖書の教えを疑って疑って疑い続けたところで、そして否定して否定して否定し続けたところで、けっして否定しきれない何かが残るはずです。理屈を超えて真実なもの、神の働き、聖霊の力、イエス様の愛・・・。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコによる福音書9章24節他)

質問した人からのコメント

2011/1/1 21:46:56

成功 皆さまありがとうございました。迷いましたが、「矛盾に思うそのままの心をイエス様に委ねる」という主旨に共感、BAとしました。これからもイエス様をお慕いしたい気持ちを大事にしていきたいと思います。

ベストアンサー以外の回答

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sur********さん

2010/12/3000:38:51

そのまま左右に引き裂かれるかどちらかを振り切るか或いは両方を振り払って真っ直ぐ進むか、しか在りません。両方を振り払った者の事を貴方は何と呼んでいますか?恐らくオカルティストや陰謀論者等と呼んで蔑んでいる筈です。

ewa********さん

編集あり2010/12/2917:39:07

私が50年前に抱いた感情ですね。
E=rmC^2これが神の実体であり、大宇宙を生み出し今なお統治している方程式です。
:r⇒E=mC^2を絶対としてつじつま合う様に必要な全ての物質、現象、法則を生み出す「強引に大調和させてしまう非情でかつ情け深くも生かしくれる不思議ななにかです。」この何かを
神という人、自然界の知恵という人、仕組みという人…様々です。
我々の想像をはるかに超える[緻密さ.仕組み.アイデア]に何も感じない人、その方は神を信じる信じないを語る以前に知らないのだ。
言い換えればこの方程式を理解するとこの世、神のご意思が見えてきます。が、幸せとは全く異なるものです。
私は別に哲学、精神学からも神仏を求めました。デカルト手法で…。

先ほどの物理的神の世界と哲学的神の世界の交わる一点に
明るく爽やかな世界がありました。お釈迦もイエスも多くの方々の訪れ寄せ書きがありました。
何事も人事を尽くして天命を待つ。
為す如く成る、成る様にしか為らない。
神の行く道に願いなさい。
等々。
そして生きる事はエネルギーを必要とし悩み苦しいものだが幸せでもある。断崖絶壁に命を懸けて挑むから幸せなんです。その人にとって…

hir********さん

2010/12/2909:23:56

まず、重要なこと。聖書は「神と人間」のことに視点を置かれた書かれたものであって、「科学書」ではないのです。

次に信仰とは、「見えないものを信じること」「実現していないことを信じること」です。聖書には、多くの先輩の話が出ています。アブラハムなんてすごいです…老齢になってやっと与えられた一人子、しかもその子から自分の子孫が繁栄すると言われたイサクを、生贄として捧げよと神に言われ…私たちだったら「今までの話は嘘だったの!」と怒りそうなものだけど、アブラハムは"神を信じて"イサクを生贄に捧げた…というか捧げようとナイフを振りかざした瞬間、神がストップをかけたのです。
『ダニエル書』に、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴという三人の若者が登場します。彼らはバビロン王ネブカドネツァルに仕えていましたが、王の建立した金の像を拝まなかったために、燃えさかる火の炉に投げ込まれてしまうのです。その際、その三人が王に言った言葉はこうでした。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(『ダニエル書』3章17-18節) この「そうでなくても神を信じる」が信仰というものです。
まぁ今の時代、こういうことはないと思うのですが、ビックバンも同じようなものです。ビックバンがあったら、神はいないのですか?関係ないでしょう?だって、ビックバンが神の意思だとしたら?神を信じていない人が見えない存在である神を無視して語れば、日本の自然科学である「ビックバン」になるのではないでしょうか?(アメリカのいくつかの州では、創造論から語っています。進化論は否定…まだ論ですから…私も進化論はかなり無理があると感じますが、仮に進化したとしても、そこに神の意思があったと思っています)。

質問者様は、人をどんな時に信じますか?些細な間違えでも否定しますか?親の場合、どうでしょう?子供の時には理解できないことでも、大人になって「あの時の意味はこれだったのか!」というのは特に子育てをするとたくさんあります。それと同じで、神の意思を全て理解できなくても、信じてみよう(憧れでも)、が大事なのです。
「このリンゴ、おいしそうだなぁ」と見ていても、本当においしいか分かりません。見た目が悪くても、誰かが悪口を言っていても、食べてみないとわからないのです。信仰もそれに似ていると思います。まずかったら吐き出せばいいんです。


ガリレオは面白い表現をしています。「聖書」は「神の言葉」を、そして「第二の聖書」は「宇宙(自然界)」で「神の創造の業」を、現している…だから宇宙から神の知恵を読み取ることが出来、その知恵で神の偉大さを示すことが出来る…と。
それは、その著「偽金鑑識官」に書かれたこの言葉からわかります。「哲学は宇宙と言うこの壮大な書物の中に書かれている。この書物はいつもわれわれの眼の前に開かれている。けれども、まずその言葉を学び、それが書かれている文字が読めるようになるのでなければ、この書物を理解することは出来ない。それは数学の言葉で書かれているのであって、…(略)」と書いています。この時代の、「哲学」は現代の「自然科学」なので「数学の言葉で書かれている」とあります。また「書物」はthe bookつまり聖書を意味する時代でした…教会にはラテン語で書かれた聖書が開いておかれていたのです(まだ宗教改革前なので、自国語の聖書はない時代)。つまり、聖書はラテン語を理解しないと…、宇宙は数学を理解しないと…と書き始めたわけです。聖書が自国語で書かれている今風にすると、聖書と自然科学は意図が違うので、表現方法が違う…ともいえると思うのです。
(ちなみに、ガリレオは当時ラテン語で出版するのが当然だった「天文対話」をイタリア語で書いたそうです。神の創造の業を多くの人にダイレクトに知らせたかったのでしょう。)

聖書は、自然科学が発達していない時代に、自然科学の真実よりも、「救い」など神の性質を説くために書かれたものです。なので、当時の民衆が納得できるような書き方になると思います。

生物学を専攻なさっているなら、よくよく考えれば、学問の方に矛盾(まだ未解明)が多いことに気付くと思いますよ。
例えば、DNA…大腸菌から人間まで全ての生物は同じ暗号でたんぱく質を合成していますよね?(全てのトリプレッとで指定するアミノ酸は同じ)これ、偶然でこうなると思いますか?家族で暗号を考えたって、それぞれの人数分、暗号が出来ますよ。一人の存在が全ての生物を創ったから、暗号が同じだった…私は分子生物学をマスターコースまで修了していますが、これこそ「唯一の全知全能なる存在の創造の結果」だと感じています。長文失礼しました。お役に立てば幸いです。

cha********さん

2010/12/2717:49:34

神による天地創造とビッグバン理論が矛盾するのは無理からぬことです(ビッグバン理論の提唱者ルメートルはカトリック司祭でしたが)。天地創造を考えてみましょう。ビッグバンには、それに働くエネルギーがあったはずです。そのエネルギーの根本原因は何なのでしょうか。このように科学的なアプローチを使って神の摂理を解明しようとする動きが昔からありました。自然神学と呼ばれます。近代科学は神の存在を前提としない実証的な方法論を用いているのでこのような齟齬が出てくるのだと思います。

Credo quia absurdum(不条理ゆえに我信ず)とは、神学者テルトゥリアヌスの言葉です。不条理の中にこそ真理があるのではないでしょうか。もっと言えば、疑問のない所に信仰はありません。イエス・キリストの最初の弟子たちも彼の教えを100%理解したわけではなかったのです。しかし、イエスの復活・昇天後に彼らは命を賭けてでもその教えを世界中に広めました。ここに信仰があります。「憧れ」と信仰を明確に分ける一線があるとすれば、それは覚悟です。私は信者ですが、イエス・キリストになら自分の一生を賭けてもいいと思っています。信仰(fides)とは覚悟であり、信頼なのです。

ちなみに、分子生物学で博士号を持っているアリスター・マクグラスという聖公会の神学者がいます。科学と信仰の調和をテーマにしていて、非常に面白いです。ぜひお読みになられては如何でしょうか。

rio********さん

2010/12/2613:42:03

私も質問者様と同じ様な気持ちです。

スピリチュアルをふと思い出したのですが、人間である以上人間は決して完璧では無く修業の為に輪廻転生を繰り返す。と聞いた事があります。(これも半信半疑ではありますが。)

結論から、世の中にある・起る・事・物などなどは全てが完璧な事は無いのではないか?と思い、その事にに対して自らが「何が正しくて何が正しく無い」と判断される事が修業でもあるのかな?と思います。キリスト教の良い所は信仰され、教えの中で物理的に違うと思われた事は心の中で「違う」と素直な気持ちで思われても良いのでは無いかな?と思います。

また、キリスト教の教えと物理学的(?)な事の違いを擦り合わせて調べてみる事も良いかもしれませんね。しかし、物理学的には実はこうでこう考える事が正しい。と判った場合でも、キリスト教が間違っている。とは言わない方が良いと思います。それはそれ。これはこれ。なので、そのギャップに苦しむ位でしたら信仰を辞められた方が良いのでは無いか?と思います。キリスト教の良い信仰を見つめ、余り苦しまないで下さいね。

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