中国大陸北部に生活していた匈奴、鮮卑、契丹、女真などの遊牧民族は、確かに太陽を崇拝の対象にしていたため太陽が昇る東を神聖視し、契丹族が立てた遼の宮殿のように東に正門を向けている、という話を聞いたことはありますが、中原で興った王朝が太陽を崇拝する風習があるとはあまり聞いたことがありません。もしかして質問者様は、兵馬俑の陣形が東に向いているから、陵墓が東向きであるから秦も遊牧民族と同様太陽を崇拝している、ということを思っているのでしょうか?
私も確かなことまでは存じ上げませんので、今まで出てきた説をまとめることと、推測することしかできませんが、ご容赦ください。
説①
始皇帝が生前徐福らを派遣し不老不死の薬を探させ、自らも海(黄海或いは東海)まで巡視してきたが、結局薬を手に入れることできずに死んでしまったがために、陵墓を東向きにすることで、不老不死の願望を叶え、切望していた仙境にたどり着こうとした説。
説②
秦は中国大陸の西に位置しています。始皇帝の治世で東方に位置する六国を滅ぼすもその残存勢力を危惧し、自らの陵墓を東向きにすることで、死んでからも秦政権のために東方の六国を威圧するように建てられた、という説。
説③
秦、漢時代の礼儀風習に関係する説です。古代中国の帝王陵墓は建設当時の礼儀制度に基づいて建てられたことが多いようで、秦や漢では西方を上位とする礼儀風習があると言われています。『礼記』、『爾雅』などの記述によれば、「南向、北向、西方為上」、「西南隅謂這奥、尊長之処也」と書かれています。さらに、後漢時代の『論衡』によれば、「夫西方、長者之地、尊者之位也、尊者在西、卑幼在東」と書かれている通り、皇帝に限らず、諸侯や上将軍、士大夫階層に至るまで、主位は皆西に座り東に向いていたのです。故に、始皇帝はその尊位を保つために陵墓を東向きにした、と言う説。
私個人としては③の説を支持しています。
では、宮殿だけではなく兵馬俑までもが東に向いているのかと言うと、兵馬俑は生前の始皇帝の警護していた宿衛軍を模して作られたので、東方の脅威から始皇帝を守るために配置した、という説もあるようですが、私は、陵墓の地理的条件からして墓の東側に配置せざるを得ないのではないかと思います。その理由として:
始皇帝陵は、南に驪山、北に渭水があるので、ここには兵馬俑を配置するのは不可能です。では残りの東と西はどうかというと、始皇帝陵より西には先祖の昭襄王や庄襄王、宣太后の墓があり、それらに向けて兵馬俑を配置することもできず、必然的に東方だけが残ります。ならば兵馬俑を東向きに陣を組む、と考えるほうが自然かと思われます。
以上が私の持論ですが、参考になれば幸いです。