アンケート一覧ページでアンケートを探す

「東向き」

中国史2,165閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">50

新機能 AI回答テストを実施中! テスト対象カテゴリ:歴史・悩み相談 ※回答がつかない場合は、画面のリロードをお試しください

ベストアンサー

NEW! この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう

ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさま、ありがとうございました。

お礼日時:2011/4/12 1:39

その他の回答(2件)

残念ながらはっきりした回答は得られないでしょうね・・・。 陕西省宝鶏闘鶏台に56座の陵墓があり、そのうち西周とそれ以前の墓は45座,東周秦人の墓は11座あるそうです。 で、これらの墓を見ると、西周以前のものは死者は上向きで頭が北にあり、足を南に向けている、つまり南向きの姿勢でいるようです。 これが、東周秦人の墓になると頭が西にあり横向きで身体を曲げた状態で埋葬されているようです。 質問者様おっしゃる通り、秦は古くから頭を西に置き、東に足を向けて埋葬する(坐西朝東)風習が有ったのは確かで、始皇帝陵も秦の風習を踏襲しています。 同じく東周時代の各国の墓を見ると、ほとんどが頭は北、足を南に向けているようですが、邯鄲市で発見された趙の墓は秦と同じく東を向いているようです。 *邯郸市趙王陵は陵台が東を向いており、道が東西にのびているので、東向きに建造されたとされています。 『史記』の記述を見ると秦は趙と同族だったとされていますね。 *『史記·趙世家』「趙氏之先,与秦共祖。(略)其一子曰悪来,事紂,為周所殺,其後為秦。悪来弟曰季勝,其後為趙」 殷紂に仕え、周に殺された悪来の子孫が秦、その弟の季勝の子孫が趙と言われています。 『史記』の記述がどこまで正しいかは検証の余地が有りますが、埋葬の仕方を見ると、秦と趙が同族だったというのも、あながち嘘ともいえないようです。 秦や趙の元になった部族が有り、彼らは宗教的理由か何かのため、死者を東向きに埋葬しており、中原(この場合は楚も含む)は周と同じく南向きに埋葬するようになったのに、秦と趙だけは東向きの風習が守られたのかもしれません。 では本題のなぜ東向きかというと、諸説があり、革命的な考古学上の発見が無い限り結論は出ないでしょう・・・。 代表的なものは①多くの原始部族に共通する通り太陽信仰によるもの、②もともと東から西に移った民族だったため、東に帰る願望を表した、③西で生まれた民族なので西を尊いと考え、西に向かって先祖を祀るようになった(生者は西を向くので死者は東向きになる)等々がありますが・・・(②と③は全く別のことを言っています。それくらい難しい問題です)。 かなり古くからある風習のようなので、尊西貶東のような後世の習慣は関係なく、もっと根本的かつ単純な理由によるのかもしれないですね。 例えば、現在の陝西省や甘粛省辺りは西に山が多く東に平地が開けているので、山を背にして墓を作った場合、自然に東向きになり、それが習慣化したとか・・・。

えー、普段、「裏を取れ」というのが習慣の私が全くの推測を書いてしまします。 最初にお詫び申し上げます・・・すいませんm(._.)m 秦は、建国以来、春秋・戦国時代を通じて、中原からは外れた西方の野蛮な国と見做されていました。 商鞅が変法をもって改革をするまでは、大家族が一緒に住み、風俗が乱れた文化程度の低い国と思われていたわけです。 であるために、秦はずっと中原への憧れを抱き続けていたのは間違いありません。 春秋時代であれば、周や鄭、戦国時代であれば、魏や斉の文化への憧れはそれは強いものだったでしょう。 で、その西の果てから、韓を初めとして戦国七雄をぶっ潰していった始皇帝の兵馬が東を向いているのは当然のことなわけです。 ですから、死後もその兵馬俑が東を向いているのは、その生前を考えると納得がいく話なのではないでしょうか。