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徳川家の名前について質問です。 家康は祖父・清康の康を、秀忠は秀吉の秀と祖父...

urt********さん

2011/4/1014:29:21

徳川家の名前について質問です。
家康は祖父・清康の康を、秀忠は秀吉の秀と祖父・広忠の忠を偏稀としましたが、家光の家は家康の家としても、光は何でしょうか?

当時、家康の側近にあった南光坊天海の前身・明智光秀の光じゃないですよね?

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rev********さん

2011/4/1018:54:05

ご質問の主旨から…少しずれますが………



家光は誰の子か………?家光は生まれつき母から、疎んじられたうえ、父からも冷たくあしらわれて居た。幼少時代が陰気で病気がちであったのも原因ですが…その家光を守り抜いたのが、乳母の於福(春日局)であるのはご存じの通り…その於福に!関わりがあるのでは……父斎藤利三(明智光秀の妹を母に生まれた)は、母は於阿牟(稲葉道勝の娘)……於福は山崎の合戦後、母と共に比叡山へ逃れ、さらに叔母(父の妹)の嫁ぎ先である長宗我部元親を頼ったとあります。その後の於福は、稲葉正成に嫁ぎ(正勝・正定・正利を生んで)のち離別し、慶長七年(1602)於福24歳であった。この頃の家康は、既婚者のそれも出産体験のある女性を好んだ。慶長七年二月から翌八年十月まで、京に滞在して居たので、家康と知り合った可能性は大いにある。では何故側室にしなかったのか…当時はまだ、大阪城は安泰であった。いかに腹は借り物の時代といえ、家康も多少の遠慮気兼ねがあったに違いない…慶長九年七月十七日、家光誕生(竹千代)、その日から於福は乳母になって
居る。公募を隠れ蓑にして…さらに家光駿府城出生説など、さまざまな謎があるが、家光自信はあくまでも家康の子と信じて居た点は、疑いの余地はなく自らの手で【二世権現、二世将軍】と記した紙片を守り袋に入れて居た事は、有名な話です。……そして、家光は家康の特命で三代将軍になれた、於江・秀忠は家光が実子であれば、親の権限で排して忠長を推せたはずなのに…生まれた順に家を継ぐと、決まって居た訳ではなかったのに…秀忠が将軍に就いたのは、慶長十年四月十六日、まだ次男結城秀康は存命であったが、家康は家光の三代将軍と引き換えに、秀忠に二代将軍を譲ったのかも知れないと………書物で読みました。この件からも家光命名の疑問が、解けるかも知れませんが……内容がずれた、視線になりました事、誠にすみません。

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old********さん

2011/4/1014:46:57

黒衣の宰相、崇伝が命名しました、当初家忠の予定でした

南光坊天海は明智光秀ではありません

gre********さん

2011/4/1014:39:07

父の「忠」の字を貰いたいという希望はあったようですが、公家の藤原家忠の先例を根拠にクレームがついたため取り止め、徳川の祖としていた源氏の新羅三郎義光からとりました。もともと家康の「家」の字も、八幡太郎義家からですから不思議ではありません。

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