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学生運動は、なぜあんなに暴力的だったんでしょうか?機動隊員を死傷させたり、内...

fut********さん

2011/6/518:15:11

学生運動は、なぜあんなに暴力的だったんでしょうか?機動隊員を死傷させたり、内ゲバで他の党派の人を襲撃したりしています。

戦後の日本の学生運動は、60年代から過激化していき、これの対処に当たった警察の機動隊に向かって火炎瓶を投げつけたり、ゲバ棒で滅多打ちにしたりした結果、多数の機動隊員が重軽傷を負っています。また、日本大学、岡山大学の学生運動では、学生側の攻撃によって機動隊員が亡くなっています。

さらに内ゲバでは、他の党派というだけで陰惨な殺し合いをして、多数の死傷者を出しています。

また、学生たちの中には殺人行為を積極的に肯定していた人も多かったと聞きます。なぜここまで暴力的だったんでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

koi********さん

2011/6/518:30:38

アウシュビッツで働いていた看守労働者の証言。
なぜ、あの優しい先生があのように残忍になれたのか、未だに理解できない。。。
ーーーーーーーーーーー
まっそうゆう事です。
命懸けで戦っていると、意に添わぬ者は危険分子と見なし簡単に殺します。
そんなバカなと思われるでしょうが、実験結果で証明されています。
ーーーーーーーーーー
学生運動も同じですよ。
熱が冷めたら、何もしないオトナシイ猫になったでしょ。

質問した人からのコメント

2011/6/10 19:53:18

学生運動をやってた連中と、アウシュビッツ強制収容所の「先生」は同じですか。納得です。皆さんご回答ありがとうございます。

ベストアンサー以外の回答

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bos********さん

2011/6/518:52:32

神が与えた人類への権利
日本だけでありません政治への参加は
投票だけでありません時としては内ゲバも。

sei********さん

2011/6/518:49:06

今だって仙石達極左残党は火炎瓶を投げ、暴力沙汰を繰り返し
社会に大きな混乱を与えた時代を誇らしげに語る。
現代の感覚ではこれは絶対に許されない事なのだが。

あの世代は戦後の混乱期、価値観の大転換が起きて
倫理観だけでなく社会その物が不安定な時代に育ったからでしょうね。
彼らを指導監督すべき大人達も戸惑っていたのだろうね。

bo1********さん

2011/6/518:29:49

一種の集団心理でしょう。日本軍と同じと考えればよいのではないでしょうか。

min********さん

2011/6/518:29:22

是非とも、菅総理や仙谷官房副長官に、回答願いましょう。

ang********さん

2011/6/518:20:43

共産党の革命方針、武力闘争を真似していたからだ。


以下引用。


かけはし重要記事日本共産党武装闘争路線の真実 本書は、軍事闘争を一本にまとめたものではないが( 人物論という制約で)、私の知る限り、豊富な材料が史上初めてでてきている。 武装 闘争の「山岳拠点」建設は、四全協軍事方針の前から着手されていた「志田構想」の一部 で ...

www.jrcl.net/pk600.html





朝鮮戦争と日本共産党の武装闘争 樋 口 篤 三


日本共産党武装闘争路線の真実

本書は、軍事闘争を一本にまとめたものではないが(人物論という制約で)、私の知る限り、豊富な材料が史上初めてでてきている。
武装闘争の「山岳拠点」建設は、四全協軍事方針の前から着手されていた「志田構想」の一部であった。レッド・パージされた多くの党員がY(軍事部・武装闘争)活動にかかわり全国五十五の中核自衛隊と独立遊撃隊に約二千五百人が参加した(二一三頁)など。
また五二年の「血のメーデー事件」をめぐる指導部内対立と志田による「党員は大衆を誘導して人民広場に突入せよ」の命令――初めて公表されたのでは?――と独立遊撃隊(二二二頁、宮島義勇と宇佐美静治)、党史では「血のメーデー」は「敵の誘導・挑発」論となっている。
党軍事方針の執筆は、最初に野坂参三「共産主義者の新しい任務―力には力を以てたたかえ」(50年10月7日)、ついで「なぜ武力革命が問題にならなかったか」無署名論文(51年1月24日)。
四全協(51年2月)行動方針は、志田、椎野、伊藤律、長谷川浩、紺野与次郎の五人。五全協(51年10月)の前記「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」は椎野悦郎(二一八頁)。
軍事闘争をめぐる最高指導部(志田と椎野)の対立―「中核自衛隊方式」か「人民軍方式」か(一七四頁、志田重男と椎野悦郎―後継者同士の対立)、そして椎野の配下にいた御田秀一(初代共青書記長など)が私に話したところでは、「椎野軍事委員長はノイローゼであった」が「椎野軍事委員長は・軟禁・状態に置かれていた」という。二二一頁)。
そして「柴又事件」(複雑怪奇なスパイ事件。秘密会議に警察にふみこまれて全員逮捕された)車永秀の項参照―など、増山は軍事方針に関して現存者ではある程度知っていた一人であるが、その彼を最も驚かせたのは――。
「日本から中国へ密航してきた青年たちを『日本人民軍』に編成して海岸で上陸作戦の訓練をおこなっていた」という小松豊吉の証言であり、彼はその現場を見学したという(二一五頁)。

武装闘争と犯罪による財政

そして幹部の中国との往復に活躍した「人民艦隊」の組織者(二〇六頁、大村英之助と永山正昭)、海員オルグの永山と、悪名高い「特殊財政」の大村ら。「トラック部隊」は、六全協後に党員作家江崎誠致が小説に書き革命運動にあるまじき恥ずべき反道徳財政として糾弾されてきた。
「トラック部隊」は中国の遊撃戦法をまねた「『武器だけでなく資金も占領軍から奪い取るのが原則だ』と戦中の『銀行ギャング事件』底抜けの方針」が、その根本にあった。「長崎県の佐世保では基地から大量の軍需品を運び出して処分する『トラック隊』が組織され、これがヒントになって『特殊財政』のいわゆる『トラック部隊』が創設された」と増山は聞かされたという(二〇六頁)。
それはその後に、カゴ抜け詐欺みたいな悪徳商法で相手を倒産させたりしながら稼いだ金を、党につぎこんだのである。ぼう大な地下組織、軍事組織は大金を必要とする。そのための特殊財政が肥大化したが、誤った政治・軍事方針こそが財政方針を規定したのである。
しかもその金(かなりの大金)の一部が最高指導者志田重男によって、神楽坂の料亭「お竹」で豪遊した支払いに使われた。六全協後にそれを知った佐和慶太郎(二三五頁)の・真相・誌でバクロされ、宮本と手打ちした志田も遁走し失脚。
大村は人格攻撃まで含めて批判されたあげく、六全協後に破廉恥罪で入獄となった。多くの党員も(私も)とんでもない奴だ、と長年そう思ってきた。が、本書によれば、彼は秀れた教養ある知識人であることを見込まれて党文化部長をつとめ、さらに映画人、企業人としても才覚があり、植村甲午郎(後の経団連会長)を親戚に持つなどその経歴が「めざらしい党員」だったことから、 トラック部隊長 を任命されたのである。まさに災難である。
政治犯ならぬ破廉恥罪で投獄され、党から全く見捨てられた時に、彼の心中はいかばかりであったろうか。

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