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慶長5年5月、徳川家康は上杉征伐の軍令を発しますが 加藤清正にも動員令は出て...

kop********さん

2006/3/912:56:02

慶長5年5月、徳川家康は上杉征伐の軍令を発しますが
加藤清正にも動員令は出ていたのでしょうか?
諸説によりますと
反家康派が、西国諸大名を糾合し兵を挙げた当初は
九州で中立的な立場をとっていたと・・・
また、加賀の前田利長には動員令が出ていましたが
動きが緩慢に見えます。
伊達、堀、島津しかり・・・。
有力大名達は、応仁の乱からはじまる
戦国再乱を睨んでいたのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

白獅庵さん

2006/3/921:11:47

家康は、この戦いの前に諸大名を味方に誘い恩賞宛がいの文書を160通もだします。
加藤清正は、反三成派の筆頭でもあり家康は西国大名の動向は清正に委ねたと思います。
関が原の合戦の時、清正は九州の小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城を攻め落とします。
これは家康の指図による行動であり、この後、薩摩・肥後の国境に大軍を布陣させ、11月22日に島津義弘が家康に陳謝し、島津征伐中止まで薩摩領に対して進撃体勢を崩さなかった。
このため、肥後25万石から52万石の加増であった。
各大名の動き緩慢?は幾内の伏見屋敷などに家臣団を常駐させています。その上にさらなる動員は各大名家の事情もあり(島津義久は家康派で、義弘宛に増援兵は一人も派遣しなかった)難しい問題であった。
清正に対する動員令は無かったとおもいます。
また朝鮮役で、国の基礎力も疲弊していた西国大名は思うような行動は取れなかった。

ベストアンサー以外の回答

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tpx********さん

2006/3/917:30:25

そう考えて良いでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・

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