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武田勝頼は長篠の戦いで武田家自慢の騎馬軍団の勢いを頼りに織田、徳川連合軍の陣...

mta_bahrさん

2012/1/921:28:02

武田勝頼は長篠の戦いで武田家自慢の騎馬軍団の勢いを頼りに織田、徳川連合軍の陣に突っ込んでいき、結局織田、 徳川自慢の大量の火縄銃で散々攻撃され兵士や父の代から仕えてきた歴戦の家臣達らまでを失い結局甲斐武田は滅びましたが、勝頼は本気で織田、徳川に勝てると思っていたんでしょうか?
なぜあんなわざわざ死にに行くような攻め方をしたんでしょうか?
信玄ならそんなバカな攻め方はしませんよね?

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juuouno6さん

2012/1/1601:21:26

勝てると思っていたかどうかは分からないですが、時が経てば経つほど国力差が開き不利になると思ってはいたでしょうね。信長自ら出てきたので、決戦を決意したのかなぁと想像します。

織田徳川側は長篠から撤退させれば勝ちですから、戦術以前に戦略的にかなり有利でしたね。信玄なら、なんて事にはならんでしょうね。信玄の存命の間に信長は躍進し武田を超える勢力を作ったのですから、敗戦の瞬間の当主を責めるべきでもないでしょう。

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onokenujiさん

2012/1/1112:46:55

まず、「武田の騎馬隊が柵に無謀に突撃して鉄砲の的になって負けた」という認識は捨てた方がよいでしょう。
当時の騎馬武者は合戦が始まる前に馬から降りて戦っていたので、騎馬に乗ったまま柵に迫ったということはありません。
物理的に考えても、当時の馬は現代のサラブレッドよりは遥かに小さくて足も遅いので、騎馬武者よりは足軽の方が強いのは明らかです。

武田勝頼が勝てると思っていたかどうかについては、勝てると思っていたから合戦に及んだのでしょう。
じゃあ勝算はあったかという話になれば、勝算は十分にあったのではないでしょうか。
設楽原の合戦は謎が多く、確実なことは言えませんが、南の山県隊は柵を迂回しようとしています。
これで迂回が成功すれば、敵は柵なしの状態で最強の山県隊と戦わなければならなくなり、戦力が南に集中します。
そこで北を攻撃すれば、中央はかなり手薄になります。そこを中軍が攻撃すれば、勝てなくはないですね。
迂回が成功しなければ、ただ対峙していればOKです。

しかし、勝頼にとって不測の事態が起きます。
酒井忠次の別働隊が大きく迂回して武田軍の背後にまわって、長篠城を包囲する武田軍に奇襲を仕掛けてしまいました。
こうなっては挟み撃ちになるのは時間の問題で、迂回が成功するのを待って……なんて悠長なことは言っていられません。
退路も断たれていますから、挟み撃ちになる前に決着をつけるしか選択肢はないのです。
それで、不本意ながら突撃となった……というのが、妥当なところではないでしょうか。

負けると思って合戦に挑むことはありません。
また、勝頼は前後のいくさぶりを見ても、戦音痴なわけでもありません。
ただ、それ以上に信長の力が大きく、また作戦の上でも勝っていただけです。

gndxg925さん

2012/1/923:43:41

もし敵陣の一角でも抜けたら、そこから騎馬軍団が蹂躙し織田・徳川は総崩れになっていたでしょう。
武田の兵1人に対して織田5人と同格です。しかし武田家は1つに纏まっておらず、御親類衆は戦闘に参加せず、兵力も織田を呼び寄せる為、最大動因では有りませんでした。つまりは1ッ箇所の綻びから雪崩を打って攻め勝つ予定でした。
結果はそれも出来ませんでした。陣城と呼ばれるくらい強固な陣でした。屏風絵をみても川を使った天然の堀、簡素な土塁に柵、その後方には三千挺の鉄砲そして2倍強の兵力、それでも一箇所でも抜けたら十分勝利の見込みあり。

mu7968isuzuさん

2012/1/922:59:54

「戦場の霧」という言葉があります。

何もわからない状況で戦いに望まなければなりません。敵の兵力は?意図は?布陣は?後方の別の大名の動向は?そのわからない状況のことを「戦場の霧」と呼んでいます。つまり本当のところは何もわからないまま、戦いに臨むのです。後世の我々は、「戦場の霧」が晴れた状態ですべてをつかむことができますが、勝頼はその「戦場の霧」が晴れないまま戦いの臨まなければならなかったのです。

すべてがわかっていたのなら、戦いを回避したかもしれません。敵の兵力は倍、築城したような野戦陣地、集中運用した強力な鉄砲隊・・戦いをしに行くことの方がおかしいですよね。であるならば、そこまで調べがついてなかったのかもしれません。

調べがついていたとするなら、鉄砲の集中運用の威力を知らなかったかもしれない、梅雨時だったから使えないと判断したかもしれない・・

もしかすると、じり貧状態を打開したかったのかもしれない。

信玄が同じ状況に追い込まれたら、せざるを得なかったかもしれない。

歴史をあと知恵で判断するのではなく、当時の人が置かれた立場で考えなければならないと思います。

2012/1/921:43:35

その戦い方はよくある勘違いです。
実際には
長篠城という徳川の城を攻めあぐねていた

背後から織田徳川連合軍主力がやってきて、退路を絶たれる

やむをえず、中央突破を目指すが川と柵により騎馬隊無力化

このような感じであったと言われています。


また、織田徳川が大量鉄砲によって、も間違いっぽいみたいです。
現在では
・鉄砲は1000丁程度(これでも、当時の基準ではかなり多いですが、数千にも及ぶ武田騎馬隊には数負けするはず)
と言われています。
鉄砲より、川の前に柵を立てたことが大きかったようです。

勝頼は信玄の子供の中では最も才気溢れた少年でした。
しかし、大きすぎる父の存在により上京を焦っていたという背景があります

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