責任を原因に求めるのと結果に求めるのとではどちらが正しいのですか?

責任を原因に求めるのと結果に求めるのとではどちらが正しいのですか?

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日常的な感覚からするとケースバイケースなんだろうが、それは正しくない。責任とは原因に求められるものである。しかし、話しをややこしくしているのは、原因と結果が、実は同じものであるという点にある。これを説明してみよう。 因果は鎖のように繋がっている。原因が結果を生み、生まれた結果がまた原因となって次の結果を有む。基本的に原因に責任を還元して行くのは、責任逃れだ。ひとつ前の段階に問題をみることだから。結果の責任というのは、ひとつ前の段階に責任を放り出すのではなく、今の自分が責任を引受ける態度だ。 原因に責任を求めて行くのが無責任な行為だからといって、同情するに足ることがあるのにもかかわらず、それを無視して何でもかんでも責任逃れだと批判はできまい。例えば、チョー貧乏な家庭に生まれた子供は満足な教育を受けられない。中には中卒で働きはじめ、親に変わって幼い弟妹たちの暮らしを支えているひともいるだろう。このような、アルバイトをしながら大学を目指すようなことすら出来ないひとが『わたしが低学歴なのはわたしのせいではない。甲斐性がない親や、貧困に手を差し伸べない社会のせいである』と主張するのは、少なからず正当性があるように思う。この人が、すべては自分が蒔いた種であるとして責任を引受ける態度は、、、つまり、低学歴なのは自分のせいである。もっと努力すれば中卒で働かなくともよい方法がみつかったはずなのだと考えるのは、それはそれで美しい考え方であろうが、その美しさは、弟妹たちをさらに貧困のどん底に突き落とす可能性に対する鈍感さと引き換えに得られている可能性もある。 しかし、この話しは、もっと詳細にみて行かねばならない。これは、今の自分を結果と見るか、それとも原因と見るかの違いなのだ。 いまの自分を結果と考えるのなら、責任は原因に求められる。 いまの自分を原因と考えるのなら、責任は引受けることになる。 これでわかるように、基本的に責任とは原因に求められるものである。違いが生まれるのは、判断する者が、自分を原因と考えるか、結果と考えるか、まさにこの点における責任感=倫理性である。 自分を原因と考えるためには、自分という人間の過去も引受けるということでもある。そのような歴史性の上に自分のアイデンティティを考える態度だ。いわゆる右派系の人々が、自己責任を問うたり、歴史的継続性にこだわったり、美徳を語るのはそのためだ。 今の自分を結果だと考える態度は、左派系の観点を構成していく。靖国神社の議論などでもわかるように、彼らが歴史的継続性を軽んじるように見えたり、問題点を社会構造のせいにするのは、そのためだ。 要するにこの責任感=倫理性の違いは、主体である人間について、どのような人間像を考えているのかの違いである。もっというなら『人間とは何か』ということについての倫理問題である。過去から今に渡る自分の行為、その原因と結果の因果の鎖すべてを含めて自分自身=原因として考えるのか、それとも、過去は過去、今は今と考え、今の自分だけが自分自身である=結果と考えるか。前者は、一切が、自己責任となる。後者は、今の自分が行う行為の帰結にしか責任を考えない。だが今の自分はすぐに過去に飛び去ってしまうため、自分という存在は常に結果でしかないものとなり、責任を問うことができなくなるというわけだ。 みよ、この回答を。bainiao56との違いを。 そしてbainiao56は、考える行為とは何なのか、それについて、考えよ。

その他の回答(2件)

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責任を求めるというのは、その対象をだれか人間に求めるはずですね。ですから、たとえば、地震で人が死んでしまったとき、原因は地震ですが、地震にして、責任を求める人はいませんよね。つまり、責任を持てる者は、人間しかいないわけです。ですから、責任を求める対象の設定を、原因対結果とするのではなく、目的対結果とするべきです。そこで、目的さえよければ、結果はどうでもよいというのは、個人的な判断の基準にはなりますが、他人が巻き込まれる場合はそうは言っていられません。結果責任が問われます。つまり、ただ自分だけが関係するのか、他人が関係するのかで、目的対結果の重みが違ってきます。自分だけなら、目的が責任の重みを増し、他人が関われば、結果の責任の重みが増すということです。 原因に対して責任を求めることができない理由は、以下のためです。例えば、また地震を持ち出しますが、地震が原因で人が死んだとき、もしその地震と言う原因に責任を持たせることになるならば、結局は、地震で人が死んだという事実に対して、地震のほかにだれか人間として、責任を取らなければならなくなります。このとき生じている事態は、普通に暮らしているには何の不自由もない家だけれど、地震には負けて壊れて中の人が死んだという状況です。このとき、その家を建てた人には、その家を建てて、人を殺してやろうという「目的」はなかったのですが、地震と言う原因に責任が発生するために、結局は、家が壊れて、人が死んだという、結果責任負わされることになります。これを演繹するならば、どんな地震が来ても、決して壊れない家を作らないと、結果責任が発生することになり、現在の公序良俗からはみ出した考えに至るということになります。つまり、原因に責任が生じるということは、、その原因を介して、あらゆる人間を対象とする、無限責任が発生することになります。全ての人間に無限責任が発生するのです。これを少し違う角度から考えてみましょう。あるビルでエレベーターが故障して人が死んだとします。このとき人が死んだ原因はエレベーターの故障ですが、エレベータ自身は責任をとれないから、ここからいもづる式に、そのエレベーターがそこに設置された状況を発生させた原因が全て明るみに出され、ついには、それを許した国まで無限に原因が遡及されて、日本国民が全て罪人であるというところまで、行き着くしかなくなります。今の日本では、この事件に対して、責任はほとんど発生しないのが公序良俗とされています。それ以外には、例えば、自動車を売ることなどは絶対的に不可能になります。自動車に代わって責任を取る人が無限に遡及的に追求されるからです。このように、責任とは、原因に求めるということになれば、ある原因にはその原因が、そのまた原因にはまたまた原因がという具合に無限の結果責任がそこに発生してしまうということになるので、本当に求めることができる責任とは、何か目的において悪を意図したものに、その目的に対する責任を求めるか、もしくは、何か落ち度が認められる者に対しての結果責任が求められるか、そのどちらかだということになります。つまり、目的責任か、結果責任であり、原因責任と言う言葉は存在しません。敬具