責任を原因に求めるのと結果に求めるのとではどちらが正しいのですか?

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責任を求めるというのは、その対象をだれか人間に求めるはずですね。ですから、たとえば、地震で人が死んでしまったとき、原因は地震ですが、地震にして、責任を求める人はいませんよね。つまり、責任を持てる者は、人間しかいないわけです。ですから、責任を求める対象の設定を、原因対結果とするのではなく、目的対結果とするべきです。そこで、目的さえよければ、結果はどうでもよいというのは、個人的な判断の基準にはなりますが、他人が巻き込まれる場合はそうは言っていられません。結果責任が問われます。つまり、ただ自分だけが関係するのか、他人が関係するのかで、目的対結果の重みが違ってきます。自分だけなら、目的が責任の重みを増し、他人が関われば、結果の責任の重みが増すということです。 原因に対して責任を求めることができない理由は、以下のためです。例えば、また地震を持ち出しますが、地震が原因で人が死んだとき、もしその地震と言う原因に責任を持たせることになるならば、結局は、地震で人が死んだという事実に対して、地震のほかにだれか人間として、責任を取らなければならなくなります。このとき生じている事態は、普通に暮らしているには何の不自由もない家だけれど、地震には負けて壊れて中の人が死んだという状況です。このとき、その家を建てた人には、その家を建てて、人を殺してやろうという「目的」はなかったのですが、地震と言う原因に責任が発生するために、結局は、家が壊れて、人が死んだという、結果責任負わされることになります。これを演繹するならば、どんな地震が来ても、決して壊れない家を作らないと、結果責任が発生することになり、現在の公序良俗からはみ出した考えに至るということになります。つまり、原因に責任が生じるということは、、その原因を介して、あらゆる人間を対象とする、無限責任が発生することになります。全ての人間に無限責任が発生するのです。これを少し違う角度から考えてみましょう。あるビルでエレベーターが故障して人が死んだとします。このとき人が死んだ原因はエレベーターの故障ですが、エレベータ自身は責任をとれないから、ここからいもづる式に、そのエレベーターがそこに設置された状況を発生させた原因が全て明るみに出され、ついには、それを許した国まで無限に原因が遡及されて、日本国民が全て罪人であるというところまで、行き着くしかなくなります。今の日本では、この事件に対して、責任はほとんど発生しないのが公序良俗とされています。それ以外には、例えば、自動車を売ることなどは絶対的に不可能になります。自動車に代わって責任を取る人が無限に遡及的に追求されるからです。このように、責任とは、原因に求めるということになれば、ある原因にはその原因が、そのまた原因にはまたまた原因がという具合に無限の結果責任がそこに発生してしまうということになるので、本当に求めることができる責任とは、何か目的において悪を意図したものに、その目的に対する責任を求めるか、もしくは、何か落ち度が認められる者に対しての結果責任が求められるか、そのどちらかだということになります。つまり、目的責任か、結果責任であり、原因責任と言う言葉は存在しません。敬具