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関ヶ原後について質問です。天下分け目の合戦のあとなので、活躍した武将に大幅な...

ami********さん

2012/2/516:05:35

関ヶ原後について質問です。天下分け目の合戦のあとなので、活躍した武将に大幅な加増がなされました。加増の幅も1万石の小幅であったり、倍増した大名もいましたよね。そこでわからないのが朝

の幸長です。39万石に大幅加増になって、果ては明治まで残りました。浅野家は豊臣恩顧どころか、親戚筋ですよね?加藤や福島などは、早々に改易されたのに、どうして浅野家だけは残れたのですか?どなたかご存知ないですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

och********さん

2012/2/517:51:59

浅野は大変でした。失点を出さなかったのが運が良かったのと、長晟が堅実だったのですね。
加藤清正と浅野幸長は豊臣挙兵の時、いち早く大坂に馳せ参じるという噂でした。関ヶ原で貰ったというものの、和歌山は一揆勢の力が強く、あまり治めたい所ではありませんでした。石高は立派ですが統治は大変。で、九度山には真田親子が虎視眈々と大坂行きを狙っていて、兄貴の幸長は生きていたらどっちに付くか私にはわかりませんが、浅野には反徳川の噂ばっかりで領地はなかなか治まらず…。幸長が死んで長晟になり、大坂の役がはじまると直ぐに兵を出して駆けつけましたが、夏の陣では、乱戦の中、浅野裏切りの流言すらありました。大坂の陣の後、せっかく治めていた和歌山から加増とはいえ、広島へ。あの福島正則の後任で、そこでも長晟は我慢して頭を下げ続けたそうです。
お家騒動がなかったのと、失点がなかったので乗り切りました。
将軍の子であろうと兄弟であろうと、取り潰しが頻発してましたからね。特に家光の頃までは苦労したみたいですよ。
詳しくは、福田千鶴子氏『お家騒動』にありますよ。

質問した人からのコメント

2012/2/10 00:13:40

成功 なるほど、浅野も苦労して失点を出さなかったんですね。ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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hk8********さん

2012/2/516:18:09

父、長政のお陰じゃないですか。
長政は親家康、反三成の姿勢で
家康に近づいていましたから。

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