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徳川家定は大河ドラマ篤姫では普段はウツケのふりをしているが篤姫の前だけではち...

amu********さん

2012/4/1801:49:48

徳川家定は大河ドラマ篤姫では普段はウツケのふりをしているが篤姫の前だけではちゃんとした自分を出していましたが実際はどうだったのでしょうか?

また家定が残した歴史的所業は何かありますか?

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she********さん

編集あり2012/4/1923:20:03

人物像を探る上で幾つかの史料があります。

まず家定には癇癖があったことが記されています。総領事ハリスは家定に拝謁した際に、「自分の頭を、その左肩をこえて後方にぐいっとそらしはじめ、同時に右足を踏み鳴らした。(中略)それから彼は、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりした声で」話したことが、「日本滞在記」に述べられています。

しかし、ひどくはなかったようで旧事諮問録によると「ただ首を振る」程度だったようです。


人物評については、松平春嶽が「凡庸で天下を維持できない」とこき下ろしているのに対し、井伊直弼は「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」と印象を述べていて、両者意見が異なっています。

しかし、アメリカとの条約締結に関して、生母・本寿院と密談していたり、将軍継嗣に関連した書状を、御台所・篤姫を介して近衛忠熙とやりとりもしています。また、井伊直弼と老中・松平忠固が始めた争いを治めたりと、酷評されるような人物と判断できない記録もあります。


以上のことなどから、よく家定は暗愚という話は耳にしますが、松平春嶽の記録は春嶽の将軍継嗣を巡る立場も考慮に入れるべきであり、他の記録などとの比較からして、一概に暗愚とは決めつけられないと考えられます。


家定が成したことですが、偉業と言えるわけではありませんが、歴史に影響を与えたという観点で見るならば、井伊直弼を大老に任命したことを挙げることができると思います。

参考:「幕末の大奥 天璋院と薩摩藩」(著:畑尚子)

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rev********さん

2012/4/1821:57:53

>十三代将軍徳川家定は、『癇癖(かんぺき)将軍』や『癇癖公方』などと呼ばれていました。
多病の上に癇癪(かんしゃく)持ちで、たえず首を振り、手足を震わせていたと言います。
こうした尋常でない挙動に加えて、幼い頃かかった天然痘の為、あばた面の醜貌で、性格は暗く、家定が三十歳で将軍となり本丸に移った時、本丸詰の小姓たちは、気詰まりに感じて縁や庭に逃げ出したとさえ言われています。
さらに、家定は暗愚で赤子同然の知能との酷評まであります。
一方には、『世上風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候』(公用方秘録)と井伊直弼が大老に任じられ、面談した時の様子も記録に残されていますので、赤子同然と言うのは言い過ぎかと思われますが、幕府のトップとしてふさわしくない人物であったことは、確かなようであります。
家定は将軍就任後、わずか五年後の安政五年(1858)に世を去りました。

pla********さん

編集あり2012/4/1816:42:55

実際は癇癪持ちで、落ち着きのない人物で、病弱でした。だが、篤姫はよく仕え、家定の信頼を勝ち取り、「余が死んだあと、徳川の行く末を見届けてほしい」と遺言します。家定は料理が得意で中でも、カステラが得意だったようです。

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