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すいません 先ほど たまたま? Web上で拝見したのですが,<(_ _)> 戦国時代~安土桃...

mar********さん

2012/5/1919:48:59

すいません 先ほど たまたま? Web上で拝見したのですが,<(_ _)> 戦国時代~安土桃山時代の武将,吉川元春氏は,大の秀吉嫌いだったそうですが, 確か 吉川元春氏の実家の毛利家の兄上の息子?の毛利輝元氏って 豊臣秀吉政権の重鎮だったですよね‥ あと 小早川氏も‥ 何故でしょうか? 何故 吉川元春氏は 秀吉氏が嫌いだったのでしょうか? かの 後北條氏とかと同じような理由ですか‥? ちなみに“関ヶ原の戦い”での,毛利軍の不参戦は,吉川元春氏ら吉川氏の作戦ですか? すいません 変な質問ですが よろしくお願いします m(_ _)m 。

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kkp********さん

2012/5/2616:05:35

石見の福家隆兼の反乱を扇動したり、吉川家で優秀な一族、吉川経家を鳥取城を餓死者続出になるほどの兵糧攻めを行ったから。それと、中国大返しの際、騙されたから。彼は追撃しようとするが、安国寺恵瓊と小早川隆景にとめられたことも。また、曲がったことが大嫌いだったと伝えられる元春は、小細工や調略を作戦としてよく使う秀吉の性格が嫌いだったと思われる。また、文化人でもある元春は、千利休が天下人となった秀吉の黄金などの豪華絢爛な茶室などの趣味を嫌い、反発したように、元春も嫌ったと思われます。さらに、元春「毛利氏」は源頼朝の側近大江広元の子孫という名門の家柄に対し、秀吉は農民の子だったこともあります。これらが重なり、秀吉の世を嫌ったのでは?

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tha********さん

2012/5/2500:43:56

元春が大の秀吉嫌い、それは知りませんでした。

二男元春は、鬼吉川と言われた母の実家に、元就の策略で養子に出されました。
戦での武勇でならす家柄です。

三男隆影も元就の策略で、小早川家に養子に入ったのです、この人は深謀遠慮の人だったそうです。

秀吉の天下になると、秀吉の常套作戦が遂行されます、過去には上杉景勝の懐刀直江兼続を、景勝とは別に米沢30万石の大名にしています、普通これは景勝にしてみれば面白くない。
伊達政宗の守役であった片倉子十郎には、面と向かって政宗の前で大名にしてやるから、今後俺に仕えろと誘っています、誰だって大名になりたいのが武士ですから、いくら小十郎が断っても政宗にしてみれば本当はなりたいのでは?ってなるよね。
家康には、譜代家臣石川を結局徳川から出奔させています。

こんな事有れば、いくら上杉でも徳川でも伊達でも、お家内が疑心暗鬼で安定しないよね、戦してももしやこいつ裏切るのでは?と思わせるだけでも効果抜群ですよね、その相手が重臣なんですからなおさらです。

そんな秀吉が、毛利両川に仕掛けるのです、甥の秀秋を毛利に養子に迎えて欲しいとの話が。
これに毛利本家はいくらなんでもまずい、ここは小早川家で養子に迎えようとなったのです。

ここで、毛利両川の内、一つの川が無くなったのです。

関ヶ原の頃となれば、、小早川は例の金吾が大名ですから、頼れるのは吉川だけ。
父元春の頃から、毛利の軍事面は吉川の役目。

それがですよ、なんと吉川に何の相談も無く、坊主あがりの安国寺のすすめで、輝元が西軍にあっさりついてしまったのですよ。
憤慨する広家。
ですが、肝心の輝元は三成から出された領地と、総大将であり筆頭大老の地位に目がくらみ話してもどうしようもないぐらい浮かれ気分。

親戚でも無いクソ坊主にまんまと乗せられて、これで石田が破れたら毛利は破滅ではないか、ここは自分が家康との交渉をするしかないな。

これで広家は、戦には出るが、戦闘行為はしないって条件で、毛利の本領安堵の約束を取り付けたのです。

ですから、これは全て吉川広家のしたことで、間違いないですよ。(父ちゃんの元春は、とっくに死んでいるからね)

r18********さん

2012/5/1921:57:57

元春が秀吉を嫌った理由・・・・不明。弟などにも話してないから。
ただ、中国大返しの講和で騙されたと思っていたかもしれない。
また、秀吉の調略戦術による戦争遂行が気に入らなかったのかも。
さらに、文化的には茶の湯を重視して、
従来の文学を相対的に軽視したのが癇に障ったか?
元春は元々文学指向だった。
太平記がほぼ完全な形で伝わってるのは元春の手柄。(吉川本)

輝元は毛利家の当主として、豊臣政権の樹立に協力した。
毛利家は、中国地方のほぼ全てを領有する巨大勢力だったから、
誰にとっても無視は出来なかった。
もしもの話だけど、天下を取ったのが明智でも柴田でも、
毛利家については秀吉と同じように遇したと思うよ。

隆景は、元就の遺言である『孤立主義』に見切りをつけたんでしょう。
その上で、『誰にすり寄るか』で、秀吉を選んだ、と。
で、すり寄る以上は内側に喰い込まないと、せっかくの領地が減らされちゃう。
だから、積極的に協力したんでしょうな。
ちなみに、秀秋の養子の件は、
毛利本家に秀秋が送り込まれるのを防ぐため、と言われています。
後の発狂とかを鑑みると、結構正解だったのかも、と思いますね。

関ヶ原の件は、吉川家というより広家個人の作戦じゃないかと。

kou********さん

2012/5/1920:18:22

元春が秀吉を嫌った最大の理由は、本能寺の変に際して、秀吉は毛利と和睦して明智を討ちましたが、これを秀吉に騙された、と感じたからだといわれます。秀吉は和睦の段階では信長の家来だったわけですから(ほんとは信長はもう死んでる)。
元春は追撃を主張しましたが弟の隆景が反対したため実現しませんでした。が、それ以来、秀吉を信用しなくなったといいます。

小早川隆景は、その辺のことを薄々感じ取っていた、ともいいますし、兄の元春よりも外交的な視野が広かったということでしょう。まあ、秀吉と馬が合ったのでしょうね。秀吉の将来性をちゃんと見抜いていた、ということでしょう。

毛利輝元は、関が原には参陣してませんが、総大将として大阪城に入っていました。戦後、責任を問われ、大きく領地を削られました。しかし、一族の毛利秀元や吉川広家が参加してます。

毛利輝元は、領地の大きさ的にも当時のトップ5に入るので五大老の一人になりました。まあ、さほど才能はなかったと見るべきでしょうが・・・。
小早川隆景は早い段階から秀吉の傘下に入り、秀吉と毛利家の橋渡しをした人でもあり、秀吉からも気に入られました。本人も秀吉びいきだったようです。秀吉の一族の秀秋を養子にしてますしね。

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