ボクシング界と暴力団との関係は、開祖渡辺勇次郎以来連綿と続く腐れ縁です。
黎明(草創)期には当たり前のことですが、後楽園ホールのようなボクシングの常打ち小屋など存在しませんでした。戦前から戦後にかけて、ボクシング界が試合会場として借りていたのは、神宮外苑相撲場(後の明治神宮第2球場)、九段相撲場(靖国神社)、軍人会館(現九段会館)、日比谷公会堂などで、特別大きな試合には、後楽園球場、旧両国国技館、田園コロシアム(昭和64年閉鎖)が使われたわけですが、由緒ある相撲場を借りるのはとにかく大変だった。
わけのわからない西洋かぶれの殴り合いを、伝統ある相撲場でやらせるなんて持っての外。海のものとも山のものともわからないボクシングの試合をやるために、渡辺らは様々なコネクションを介して交渉をせざるを得ず、裏社会にも当然筋を通すことを求められた。
現役の早大生だったピストン堀口を一躍スターダムに押し上げた、昭和8年の「日仏対抗戦」は早稲田のグラウンド(戸塚球場)で行われましたが、ボクシング協会との折り合いが悪く、何かというと衝突を繰り返した開祖渡辺は徐々に村八分状態となり、昭和9年に止む無く堀口を連れて日倶を飛び出し、不二拳を設立して独立した岡本不二は、堀口とジョー・イーグルの東洋タイトルマッチ(昭和12年)を国技館で開催。
この時も相撲界内部の抵抗は根強く右翼まで騒ぎ出す始末となり、山口登(山口組2代目)と嘉納健治(治五郎の甥)に仲介を頼み、ようやく許可された。この時山口登と岡本をつないだのが、不二拳に居候していた若き日の田岡一雄で、以来堀口の興行に山口組は欠かせない存在となる。
チケットをさばいてくれるだけでなく、引退して身の振り方に困った元ボクサーの受け皿としても、長い時間をかけて持ちつ持たれつの関係を築いてきた。こういうご時勢ですから、昔のように興行の表舞台を彼らが大手を振って闊歩することはなくなりましたが、そう簡単に清算できるようなものではありません。