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プロイセンについて。 プロイセンの名前?の移り変わりってこれであってますか? ...

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ID非公開さん

2012/9/217:32:33

プロイセンについて。
プロイセンの名前?の移り変わりってこれであってますか?
ドイツ騎士団?(神聖ローマ内)

ドイツ騎士団

プロイセン公領

プロイセン公国

プロイセン王国

間違ってたら教えてください。

また、プロイセン王国はドイツに『なった』のですか?
プロイセンが消滅しそれとは別にドイツができたのですか?
そこら辺がよく分からないので教えてくださると有難いです。

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na_********さん

2012/9/221:10:18

プロイセンは、ポーランド北部地方、プロイセン族の居住地をいいます。
プロイセンには、西プロイセン、東プロイセン、南プロイセン、新東プロイセンの4地区があります。
南プロイセンは、ポーランド領に、新東プロイセンは、リトアニア領となります。
ドイツ騎士団は、西プロイセンと東プロイセンを当初領有します。
ドイツ騎士団は、ポーランドとの戦いに敗れ、西プロイセンを失うと共に、東プロイセンのみのポーランドの領邦であるプロイセン公領となります。

質問者の言われているプロイセンは、東プロイセンのみが該当します。
プロイセン王国時代~第二次大戦までの間は、東プロイセンと呼ばれており、現在は、カリーニグラード州と呼ばれています。
プロイセン王国は、名前こそプロイセンですが、実質的には、ブランデンブルクですから、プロイセンの名前の変遷としてプロイセン王国を使用するのは、正しいとはいえません。

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pep********さん

編集あり2012/9/505:11:36

ドイツ騎士団(ドイツ人の聖母マリア騎士修道会)はプロイセンの名前というより、プロイセン(バルト海沿岸のプルーセン人が住む地域)を征服した騎士修道会の名前です。
プロイセンにはドイツ人が植民し、騎士団はドイツ人やドイツ系の人々から成っていたようですが、ドイツ騎士団やその領土が神聖ローマ帝国内にあった訳ではありません。
ポーランド王に臣従していたこともありますし、プロイセンの西側はポーランドとの戦争に負けてポーランド王領になりました。
この地域は後にポーランド分割でプロイセン王国領になっています。

また(この頃は西がポーランド王領なので東のみ)プロイセンはドイツ騎士団の領土ですが、ドイツ騎士団がまるごとプロイセン公領になった訳ではなく、ドイツ騎士団はプロイセンを失った後も存続しています。

プロイセン公国→プロイセン王国も単にプロイセン公国が王国になったものではなく、プロイセン公国とブランデンブルク選帝侯領の同君連合ブランデンブルク=プロイセン→プロイセン王国です。
当時はホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯がプロイセン公も継承しており、18世紀にプロイセン公・ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が初代の「プロイセンの王」フリードリヒ1世として戴冠しました。
またプロイセン王国は後に首都をブランデンブルクのベルリンとし、政治の中心も飛び地となった元・プロイセン公国のケーニヒスベルクよりもブランデンブルクのベルリンにあったようです。

プロイセン王国は『ドイツになった』というか『ドイツの一部』になりました。
ドイツ帝国はプロイセン以外にもバイエルンやザクセンなどで構成されているので、プロイセンだけでドイツができた訳ではありません。
またドイツ帝国は連邦国家で、プロイセン、バイエルンやザクセンなどはドイツ帝国の一部になった後も王国であったので、すぐに消滅はしていません。
これらの国々が『王国』ではなくなったのは、第一次世界大戦敗戦後のドイツ革命でのことです。
しかしドイツ統一によってドイツ帝国の民となったプロイセン人は、プロイセン国民としての意識が薄れていったそうなので、心理的にはドイツ帝国ができたことで段々と消えていったと言えるのかもしれません。

ベルリンを含むブランデンブルクは現在でもドイツですが、ケーニヒスベルク(現在はロシアの飛び地カリニングラート)やメーメル(現在はリトアニアのクライペダ)などドイツ騎士団領やプロイセン公領の領土はドイツではなくなり、ポーランドやロシアなど周辺国の領土になっています。

usa********さん

2012/9/221:08:40

合ってますよ
あえて言うなら最初の「ドイツ騎士団」の正式名称は「聖母マリア騎士修道会」だってことくらいでしょうか。

プロイセン王国が他のドイツ領邦(バイエルンですとかザクセンだとか)と一緒になってドイツ帝国になりました。
ドイツ領邦というのは以前は「神聖ローマ帝国」を構成していた国々です。
元はオーストリア公国のハプスブルク家が皇帝の座を代々引き継いでまとめていました。
しかしナポレオンがヨーロッパで暴れまわっていた時に対処出来なかったことからオーストリアの弱体化が判明、ドイツ領邦は神聖ローマ帝国から離れる動きを見せます。
何しろドイツ領邦は1つ1つはぶっちゃけ小国レベルですので、出来るだけ力の強いところに付きたい。
オーストリアはこれはヤバイと自ら帝国を解体してオーストリアとハンガリーやらチェコやらの属国だけでまとまったオーストリア帝国を新たに組織します。
こうなるとドイツ領邦は本気で小国レベルになって放り出されてしまう。
慌てて再度まとまろうとしたところで、力を付けたプロイセンが主導権をオーストリアと争います。
オーストリアの属国の国々はスラブ系民族だったりマジャールだったり多民族。
プロイセンもホントは移民を受け入れていたので多民族国家なんですけどその辺は無視して「ドイツ系民族だけでまとまった国作ろうぜ!」と呼びかける。
要するにオーストリアに属国切り離せと迫った。
実のところオーストリア本国は割と小さいので属国を失うのは権力兵力財産を失うことに等しい。
別に多民族でもいいじゃないかと言うオーストリアとドイツ系民族に拘るプロイセンで主導権争いから戦争に。
これに勝利したプロイセンがオーストリアをハブって他のドイツ領邦と集まって作ったのがドイツ帝国。
つまり
神聖ローマ帝国-(オーストリア+α)=ドイツ帝国(プロイセン含む)
と言う感じ。
ちなみにこの時にオーストリアともドイツとも組まずに独立したのがリヒテンシュタイン。

プロイセン王国はドイツ帝国を構成する国の一つです。
しかし次第にそれぞれの領邦の独立した国としての意識は失われ、プロイセン王国はほとんど名前だけの存在になってしまいます。
プロイセン国王はドイツ皇帝を兼務していましたが、ほぼ皇帝としての印象しかなくなってしまいました。
第一次世界大戦でドイツ帝国敗退で帝国が解体された時にプロイセン王国も存在しなくなってしまったのです。

kimyonjuさん

2012/9/218:06:48

あってます。(?はいりません)

プロイセン王国はもとは神聖ローマ帝国の領邦国家の一つでしたが、1871年に現在のドイツ全域とポーランドの西半分を統合し、ドイツ帝国を宣言しました。

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