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日蓮正宗の血脈相承とは、結局何なのでしょうか?そもそも法主とは、日蓮大聖人様...

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ID非公開さん

2012/10/2210:48:44

日蓮正宗の血脈相承とは、結局何なのでしょうか?そもそも法主とは、日蓮大聖人様の仏法を受け継ぐだけの、単なる器に過ぎないのか、はたまた日蓮大聖人様、 戒壇の大御本尊様と不二の御尊体なのか、一体どちらなのでしょうか?それによって血脈相承の意義も大きく変わるのではないですか?

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fuj********さん

2012/10/2221:31:18

大石寺第9世日有師は、化儀抄において『信と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず、夫れとは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり』と仰せになっていますが、血脈とは宗祖日蓮大聖人以来の信心を違えないところにありす


即ち三大秘法の仏法を継承して弘通する事に他なりません


従って血脈とは、法主の絶対性やカリスマ性を秘伝的に授受するためのものではありません


血脈の本義とは、宗開両祖以来の信仰を少しも間違える事なく、正しく継承、弘通して行く事だと言えるでしょう


では法主の役割は何かと言えば、大石寺第66世日達上人は『我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝とたてます


それに対して日目上人は座主である


その日目上人の後は、皆筒の流れのようにそれを受け継いで行く器に過ぎない』と仰せになっているように、法主の役目とは、日蓮大聖人の仏法を受持する僧俗とともに、三大秘法を継承、弘通して行く事だと言えるでしょう


そこには「当代法主の指南は、大聖人の御書を超越する」と言うよ様な、法主絶対主義や法主信仰などの邪義は、入り込む余地さえないのです

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質問した人からのコメント

2012/10/23 04:58:52

降参 皆さんありがとうございました

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yos********さん

編集あり2012/10/2219:14:51

>日蓮正宗“の”血脈相承 となると日蓮正宗では後者の意味になるでしょうか。


しかし、果たして日蓮がそのような神秘主義的血脈相承を説いたかと言えば否でしょうね。


日蓮正宗の信徒が言う血脈論はたいてい、日蓮の遺文の偽書かまたは真偽未決の怪しい文献を挙げるか、日蓮本人ではない大石寺の貫首の解釈を挙げて正統性を述べます。


要するに日蓮の真蹟遺文やその断簡では神秘主義的血脈相承が説明できないのです。


なぜなら真蹟遺文やその断簡からは神秘主義的血脈相承を正当化できる文言がないからです。早い話が日蓮の思想ではありません。


今では日蓮聖人真蹟集成という真蹟遺文やその断簡を集めた書籍もありますので嘘は通用しません。

bou********さん

編集あり2012/10/2219:49:37

唯受一人の血脈相承とは、御法主上人の御内証には唯授一人の御相伝により、その御本仏大聖人の御魂魄が在すということです。

「観心本尊」とは、即ち事行の題目なり。謂く「観心」即ちこれ能修の九界、「本尊」即ちこれ所修の仏界、十界十如既にこれ分明なり。豈法の字に非ずや。九界・仏界感応道交し、能修・所修境智冥合し、甚深の境界は言語道断、心行所滅なり。豈妙の字に非ずや。(『観心本尊抄文段』)

御本尊様とは所修の仏界でありますから、大聖人様の御魂であります。印刷機械が大聖人様の御魂を大量生産でもしたら、ノーベル賞どころか、世界がパニックとなるでしょう。必然的に御形木御本尊を所修の仏界として顕わすためには、御本仏大聖人の御魂魄を血脈相承された御法主上人の御開眼供養に尽々の意義が具わってくるのです。創価学会では、御本仏大聖人の御魂魄の血脈相承なくして、如何様に御形木御本尊を所修の仏界として顕わすのか?印刷機械のどの部分にその秘密があるのか、誰も答えられる人はおりません。

御本仏大聖人の御魂魄の血脈相承なくして、本尊の流布が不可能となり、日蓮大聖人の仏法は衰退することとなります。

■日寛上人御指南

これについて、第二十六世日寛上人は左京日教師の「類聚翰集私」の「仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有るべきなり」との文を書き残されています。

「五、〝日寛上人は六巻抄から法主信仰を除外された〟との僻見を破す」より

また汝は、〝「当家法則文抜書」は「抜書」であり、殊更に何かを主張した論書ではない〟などと同書を評価しているが、この『当家御法則文抜書』には、抜粋された要文に続き、「大貮(だいに)云く」(※「大貮」とは日寛上人御自身の阿闍梨号)として私註を加えられ、日寛上人御自身の教学的見解を述べられた箇所も多く拝せられるのである。さらに註の中には、

予が末法相応抄の如し(研教九─七五七頁)
と記されているように、明らかに他人の閲覧を想定された御配慮をされており、これ以外にも随所に同趣旨の御教示をされている。

「また汝はこの文が左京日教師の『類聚翰集私』の文であることを奇貨として、〝じつは、日寛上人は、「類聚翰集私」が誰の作なのか分からず、宗門の教義規則=「当家御法則」の集成として認識され、抜き書きをされた。「類聚翰集私」を日教の作と断定したのは、近代の堀日亨上人であり、江戸時代の宗門人は知る由もなかった〟などといい、また〝たとえ歴代先師の指南であっても、「法主信仰」につながり、正統教学を混乱させる教えは用いない、との日寛上人の姿勢がうかがい知れよう〟などと、あたかも日寛上人が御法主上人の御内証に関する御指南をすべて〝除外〟されたかのようにいっている。

日寛上人は、抜き書きされた「当家御法則」の文が、『類聚翰集私』中にあることを御存知であったかどうかは不明であるが、もし御存知でなかったとしても、この内容は大石寺の伝統教義であると認識されていたのである。そもそも、御法主上人を信順すべき旨の信条は、〝歴代先師の指南〟以前に大聖人の『御本尊七箇之相承』に、

代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。(聖典三七九頁)

との御教示が存在するのである。日寛上人は御著述中において、『御本尊七箇之相承』を度々引用なされていることからも明らかなように、当然この「代代の聖人悉く日蓮」との御指南を大聖人の御金言として拝していたのであり、汝の疑難は完全な的外れである。

http://jagihashaku.main.jp/matsuoka03/005.htm

■日享上人御指南

第三十二条【十条】、本寺直檀那の事は出家なれば直の御弟子・俗なれば直檀那なり。
第三十三条【七十四条】、本寺直の弘通所にて・経を持つ真俗衆は数代を経るとも・本寺の直弟たるべし、其所の代官の私の弟子にはあるべからず、既に代官と云ふ故に、※3『初此の菩薩により結縁の道理』爾らざる故なり云云。(『』は当方が挿入)
類文。
物語抄上四十五段に云く、私の檀那の事、其れも其筋目を違はゞ・即身成仏と云ふ義は有るべからざるなり、其小筋を直すべし・血脈違ひは大不信謗法なり堕獄なり、信心の人は譬へ歴縁退境すといへども・終には成仏を為すなり已上。
○註解。
此類文は此三十三条にも・前の二十九条已下にも通ずるものなれば宜しく併せ見給ふべし、「直檀直弟」の事今も昔も異なる事なし、「本寺直の弘通所」とは・此時代何れの寺坊を指すべきや、金井の法華堂吉奈の大乗坊の類にや・未だ確たる文書を見ず、「経を持つ」とは法華経の正義を持つなり・即ち末法に相応する本困下種の御題目を受持信行する事を指す、「其所の代官」とは・本寺の上人即ち本山法主の命を蒙りて・直の弘通所を主管する僧侶なり、之の時代は僧俗共に一時にも長時にも代理人を以つて代官と称せり、一時にもあれ長時にもあれ代理人なるが故に・直の弘通所に在る弟子檀那は代官自己の弟子檀那にあらずして・本寺の直弟直檀なり、上の二十七条已下反覆丁寧に本末の分限を明にし、法水授与の直傍を論じ給ふ事忽かせに看過すベからざる条文なり、※5
※4「初従此仏菩薩結縁」とは・其文を云へば
※1「初め此仏菩薩に従つて結縁し還つて此仏菩薩に於いて成熟す、此に由つて須らく下方を召すべきなり」と云ふ文句の文なり、涌出品に於いて他方の大菩薩等此土の弘経を請へるを止めて・下方本化六万恒河沙の本眷属の大薩?を召し出して、末法に於ける妙法弘通を命じ給はんとの経文を釈せる文なり、今一往の文釈を為さば・此仏とは第一番成道久遠実成釈迦牟尼仏にして、菩薩とは本化上行等の本眷属なり・再往末法に於いて義釈を為さば・此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云ヘば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり※1
・※2但し本条は本寺と代官との分限を明に示されたる迄にして・法水血脈の直系傍系或は法水の清濁断続を意味するものにはあらざるなり。※2

日享上人の御指南です。日享上人は、※3『初此の菩薩により結縁の道理』について、※4で文意を説明しています。それが※1の内容です。

『再往末法に於いて義釈を為さば・此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり』

日享上人は代々の御歴代上人について、唯授一人の血脈相承の断絶などなく、宗祖開山已来血脈相承の法主に宗祖日蓮大聖人の本体、すなわち御内証が在すと御指南されています。


■日達上人御指南

「猊座というものは、大聖人様の生れ変りを表わす意味なんです。大聖人様が常在、常にここにいらっしゃるということをあらわすところの猊座であります。(中略)だからいつでもその時の法主は大聖人様のお仕事をつかさどっておる」

■金紙相承

末法の御本仏の御内証を顕わすということに限定をすれば、大聖人様の御法門は、『御義口伝』、『百六箇抄』が本、、それ以外の御書は迹となります。この中で『御義口伝』と『百六箇抄』を比べれば、『百六箇抄』が本、『御義口伝』が迹となります。しかし、金紙と『百六箇抄』を対比させるに、金紙が本となり、『百六箇抄』は迹となります。

天台伝教両大師の正等法門を主張して一部八巻の法華経におけるところの教主釈尊を立てられたのだという認識しかなかった鎌倉在家信者等に対しての御指南を根本とするか、日興上人へ内々申した法門を根本とするのかということです。口伝なしに大聖人様の御法門を論ずるは、盲目の人が像の鼻をなで、蛇のようなものであると認識するが如きものです。真蹟至上主義の日蓮宗と同じ鉾先(ほこさき)教学に堕しているのです。

御書、御書と騒ぎたて、根本をどこに置くかを知らないから唯受一人の血脈相承も理解できないのです。御書の他に断片と断簡の存在もあるのです。どちらか忘れましたが、真蹟にも含まれない大聖人様の断簡(断片)だけでも三百数十もあるわけですから、大聖人様の御書は、今の二倍近くにもなるわけです。こうなると御書、御書と騒いでもしょうがないわけです。大聖人様の半分の御書の理解をもって、大聖人様の全体の骨格を捉えようとする愚を犯しているのです。日蓮大聖人の御法門にあっては、『三沢抄』に説くが如く口伝が根本となるわけです。

■稚児貫主 第67世日顕上人御指南/H4.8.28全国教師講習会
したがって、宗門の集団全体がそのような考えでいるわけですから、その稚児貫首が、「汝こそ法主となるのだぞ」との始めにおける上人の言を根本として成長する過程において、法門の学習とともに、法主たる自覚のもとに先師の金口の言辞を元に金紙を拝しつつ、この場合は相承の内容において金口が金紙に代わる意味も一部、存するわけで、また、古来の法に詳しい老僧からの話を聞きつつ、真に法を正しく伝えていくという、このような介添え人をも含めての相承の在り方も存したわけです。
しかし、そこには金口を元とする金紙が厳然として存し、その金紙の内容にまた、金口の意義における厳然たる伝承が存するという上からの稚児貫首という在り方であったのです。それを宗門の僧団全体が考え、支え、血脈を伝持していくという時代状勢であったわけです。
ですから、そのような時代背景、状況、慣習等を全く無視して、まして僧侶でもない、また、信心で拝することもできないような創価学会の在家の人間の考えで、唯授一人の血脈相承の内容について、「これは10歳だから、相承が伝わるというのはおかしいではないか」と質問してくるのは、信を見失った全くの見当違いであり、謗法なのです。その辺のところを皆さん方もしっかりと信解していただきたい。必ず血脈は伝持されているのであります。

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