ここから本文です

高橋至時は、東、西、どちらの奉行所に属していた?

ter********さん

2012/12/1302:50:24

高橋至時は、東、西、どちらの奉行所に属していた?

江戸時代の天文学者に、「高橋至時(たかはし・よしとき)」という人がいます。この人は、麻田剛立(あさだ・ごうりゅう)の門下生で、寛政暦の作成に貢献したそうです。彼は、元々の身分は、大坂の町奉行配下の同心だったそうです。
当時の大坂町奉行は、東と西に別れ、それぞれが、与力を三十騎、同心は五十人を抱えていたそうです。高橋至時は、どちらの奉行所に属していたのでしょうか?

補足mugaku36keiさん、ご回答ありがとうございます。大坂定番でしたね、勘違いしていました。
それと、みなさんにお聞きしたいのですが、高橋至時に限らず、大坂定番同心の暮らし向き、勤務形態(どのような仕事で、勤務時間は? 当番や休みなどは?)、住まいの様子(広さ、大きさ。町奉行付きだと、同心でも土地は200坪もあったらしい)、俸禄、扶持なども分かるとありがたいです。
また、歴代の大坂定番を勤めた人(小大名らしい)も調べています。高橋至時の時代、誰が定番であるかも確認したいと思います。京橋口、玉造口のどちらの配属だったかについても、引き続きご回答をお待ちしています。

閲覧数:
278
回答数:
1
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

mug********さん

編集あり2012/12/1316:22:35

町奉行所ではないですね。大坂定番配下の奉行所です。この奉行所も東西2箇所があったのですが、同心の高橋至時がどこの配置だったかは分かりません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E8%87%B3%E6%99%82

大坂定番
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/edojob2.html#

時期的にこれではないでしょうか。
三草藩(丹羽薫氏) もしくは足利藩(戸田忠喬)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8D%89%E8%97%A9

大坂定番の同心の待遇は30俵3人扶持~15俵2人扶持。

あとはよく分からないので江戸の番方から推測です。役方(文官)は3日勤め(2謹1休)ですが、番方などの軍事畑では朝番、夕番、泊番の3交代制。
当時の定番就任者についてはまた調べてみたいと思います。

質問した人からのコメント

2012/12/19 14:58:05

ご回答ありがとうございました。大阪定番には、京橋口(西)と玉造口(東)がありますが、その後調べたところ、高橋至時は京橋口だったようです。同心の屋敷や定番の屋敷などは担当部署に近いところに置かれていたというので間違いないと思います((http://onjweb.com/netbakumaz/oosakamap/oosaka52b.pdf)参照)。
なお、高橋至時については、また近い内に質問するかも知れません。その節は、またよろしかったらお願いします。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる