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武田信玄は今川義元の死から4年後の1564年まで川中島を戦ってます。またその4年後...

jfx********さん

2013/5/812:15:53

武田信玄は今川義元の死から4年後の1564年まで川中島を戦ってます。またその4年後の1568年に義信を殺して駿河に進出、またまた4年後の1572年に西上作戦です。 川中島は上杉の仕掛けですから仕方がないですけど、武田信玄に上洛の野望があればもっと早く西上作戦を開始する事も可能では?西上野に手を出せば上杉の反感を増やし駿河西上作戦には-です。徳川北条により駿河を諦めさせられたのも上杉が後ろにいた影響は大きいです。今川義元が亡くなり徳川が三河を統一しそうな時点で西上作戦に専念もしくは駿河に戦力を集中等しなかったのは何故でしょうか?早く駿河進出すれば徳川北条に邪魔され撤退し西上作戦のために再度進出にはならずに…甲斐信濃駿河遠江を支配する大大名として関東官令上杉と関東覇者北条の戦いに持って行けば上洛のため徳川織田を攻めるだけ。後は運ですけど早く駿河に方針転換すべきだったと思うのですが。

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mil********さん

2013/5/1000:33:19

信玄としてはすぐにも駿河侵略をしたかったのでしょうけれど、それは出来なかったのです。今川義元が桶狭間で戦死したことは痛手でしたが、それが即座に今川家の滅亡を意味することではありません。跡継ぎの氏真はいましたし、後見役の祖母・寿桂尼、親族たちもいれば家臣団も健在でした。今川家仮名目録という法律によって領国経営も出来ていましたし、その国力は侮れませんでした。
そんな今川家と正面きって戦ったところで、泥沼化するか、割りに合わない結果をもたらすだけです。信玄は生涯の後になればなるほど、戦う前に外交や策略によって自分に有利なように場を整え、戦術や戦略での勝利を確実にするようになりました。よって、駿河侵略についても稚拙に急ぐことなく、今川家の内部からの切り崩しや根回しを入念に行いつつ(徳川家康との連携などがそれです)、家中においても戦の準備をし、機が熟したと見るや、ようやく、かつ、電光石火で進軍したのです。
その機とは、おそらく寿桂尼の死去だったのでしょう。公家である中御門家の姫として生まれ、今川氏親に嫁いだ寿桂尼は、夫の死後は息子である氏輝、義元の後見人として家中で重きをなしていました。唯一の女戦国大名とまで呼ばれた寿桂尼が世を去ったのは、永禄十一年(1568年)三月。同年、待ち構えていたように信玄は駿河侵攻を始めています。

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zep********さん

2013/5/816:33:20

>武田信玄に上洛の野望があればもっと早く西上作戦を開始する事も可能では?

武田信玄が駿河に侵攻したことにより
甲相駿の三国同盟は瓦解しました。

武田信玄の裏切りに、
北条氏康は上杉謙信と同盟を結びます。

そういうことで
新たな武田信玄の包囲網が構築されて
簡単には動けなくなってしまったのです。

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