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会津戦争で薩摩藩やら長州藩の連中は残虐だったんですか?

yos********さん

2013/7/512:06:38

会津戦争で薩摩藩やら長州藩の連中は残虐だったんですか?

補足たくさんの回答ありがとうございます
鹿児島の方まで!

やはり薩摩~長州~土佐の残虐行為は嘘ではなく本当の話だったんですね…

なんか呆れましたよ
大河ドラマでは残虐シーンは出さないんですかね? ちゃんと残虐性を伝えて欲しいですね!

やはり、江戸の人達に比べると 薩摩.長州.土佐の連中は民度が低くて野蛮だったんですかね どうだったんでしょうか?

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ssk********さん

2013/7/512:48:24

薩摩藩は倒幕運動の中で幕府に対する民衆の社会不安を煽るため江戸のホームレスたちに金を払い「強盗と放火とレイプをじゃんじゃんやれ」と命じたみたいですよ。

また、会津戦争の時の新政府軍の残虐非道ぶりを書いた本を読んだことがあるのですが、新政府軍がなだれ込んだ会津の土地では、素っ裸で腹を切り刻まれた女の死体とかあったそうですよ。非戦闘員の女性をレイプしまくり、その後で面白半分に腹をえぐって虐殺したらしいです。
その他家々で略奪を繰り返し、会津の女性を多数生け捕りにして数珠つなぎに縛って連行して、後で山分けしたらしいですよ。

織田信長が上杉謙信に貢ぎ物をたくさんしていた時に甲冑を送ったことがあったらしく、それが上杉家の家宝みたいになっていたそうなのですが、上杉家が徳川に敗れて家が潰されそうになった時に会津藩が助けたそうで、そのお礼に信長の甲冑を会津に送ったそうです。その信長の甲冑を探すテレビ番組をやっていて、最終的にその甲冑の肩の部分が関西で発見されました。これも会津戦争の折に略奪されたそうです。

卑怯、卑劣、残虐、非道、外道、鬼畜、狡猾の限りを尽くしたほうが戦争は勝つんです。
関ヶ原の徳川も今の政治もそうですが、いつの時代もズルいやつが勝っているんですよ。
大企業や大学病院のトップ争いもそうですよね。

悪の限りを尽くして罪悪感ゼロで頭がいいヤツがどの世界でも支配していますよ。

質問した人からのコメント

2013/7/11 05:55:06

新政府と称する謀反軍の残忍性が良くわかりました。
回答ありがとう。

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dxd********さん

2013/7/714:46:08

あくまでも戦争なので残虐性というはあると思います。

ただし、幕末の期間、尊皇攘夷から倒幕に流れ動く薩長(土)の志士が、会津藩が筆頭を務める佐幕の志士によって粛清されていました。粛清された挙句、獄門さらし首は当たり前だった時代です。自分の仲間たちが会津を筆頭とする取り締まりにつかまり残虐な形で処刑されていることを見ると、薩長もそれなりに会津に対して思うところはあったと思いますよ。特に会津は京都守護職などを勤めた藩なので、薩長の恨み辛みは特に大きかったと思います。

その背景を理解したら、民度云々の話ではなく、とてもじゃないけど大河ドラマという短い時間の中で語れる話じゃないと思います。
むしろ、龍馬伝と八重を足したくらいのスケールじゃないと到底描ききれないかと。

ちなみに薩長を中心とする新政府側は江戸の無血開城に応じてますし、その後の日本の近代化の中心を担っています。
民度云々の簡単な話じゃないと思います。

yos********さん

編集あり2013/7/619:42:05

戦争とは残虐なものですよ。どちら側についても同じことです。

官軍側だけでなく会津藩側にしても似たようなもんです。
あまりの非道ぶりに愛想を尽かした会津領民は官軍側に加勢したくらいですから。
薩長や会津に限らず、戦争になると人は残虐になるもんです。江戸の人達だって戦になれば同じことです。
先の戦争だって我々日本人は中国人や韓国人から残虐非道だって言われています。
しかし、彼らだって似たようなことしてます。同じようなもんです。
藩とか、人種、民族などに関係なく人は戦争になると残虐になるものですよ...

そのあたりを大河ドラマではちゃんと描いてほしいもんです。

tob********さん

2013/7/611:20:02

北越戦争と会津戦争で傷病者の治療にあたった、ウィリアム・ウィリスという英国人医師が、詳しい報告書を書いてます(中須賀哲朗訳『英国公使館員の維新戦争見聞記』)。

戊辰戦争は、西欧列強の監視下で行われた戦争です。
ウィリスという人物は、従軍医師として治療に当たるだけではなく、情報収集の役目を負ってました。報告は、戦争、街、人、物、金、世論と多岐にわたります。

ウィリスにとって、戊辰戦争は「野蛮」との邂逅でした。

彼は、北越で捕虜の姿を見てません。
新政府軍が片っ端から敵を殺したからです。
その非人道主義を糾弾したことを英公使に繰り返し報告してます。

しかし、ウィリスが見聞きした「野蛮」は、新政府軍だけではありませんでした。

――
うわさどおりであるとすれば、ミカド[天皇]の軍勢にたびかさなる敗北をこうむったのちの会津兵は、みずからの国への退却中に統制のない無頼の集団となり、逃走の道すで物を盗み、人を殺し、略奪を働いたのであった。<略>私が知るかぎり、この付近で会津に対する同情者はまったくいないのである。
――

北越で会津兵の評判が悪かったのは事実です。
噂は、新潟の郷土史研究で裏付けられます。

長文すぎる引用は慣例上どうかと思いますが、私が要約してもリアリティを損ないますので、できるだけウィリスの言葉をそのまま記します。

――
両軍の戦闘が熾烈をきわめたにもかかわらず、ミカド[天皇]の軍隊は捕虜をかなり寛大に取り扱ったようだ。会津兵はミカド[天皇]の軍勢の戦闘員ばかりか、彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて両足の機能を失った一人の人夫に会ったことを、私はここに記しておきたい。その人夫は、もし会津兵につかまったならばむごい死に目にあわされていただろう、と私に語った。そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。たくさんの死体が堀から引き上げられたが、彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ、腹が深く切り裂かれていたのだ。

私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。長崎で、彼らはミカド[天皇]側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者をみな殺害したのである。一方、会津の国では、ミカド[天皇]の軍隊は各地で略奪し、百姓の道具類までも盗んだという話を聞いた。これらの話の事実がどうであれ、戦闘にともなう無残な人命の犠牲が、戦場が若松に近づくにつれてはげしさの度合いを増していったことは疑いもない。
――

時系列が前後してわかりにくいのですが、前段が会津での実見、後段が長崎から北越に至る間の伝聞です。

若松では、新政府軍の傷病者、会津の捕虜の双方の治療にあたりました。
ウィリスは先立つ仁和寺宮との会見で、捕虜の扱いを改善することを進言しており、ある程度聞き入れられた様子が伺えます。
しかし、新政府も会津藩兵も「我々とは戦争のルールが違う」と言いたげです。

また、ウィリスは会津で一揆に遭遇しており、現地の民心の聞き取りを行なってます。

――
残念ながら、会津藩政の過酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。<略>会津の国の貧しさは極端なものである。家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりがわるく、小柄で、虚弱な種族であった。<略>
また会津侯が過去六年間ミカド[天皇]の守護職として課せられた京都における大軍の維持は、けっきょく人数の点でも費用の点でも彼の力にあまるものであった、と一般的に考えられている。私が会津の国で見聞した結果から受けた印象では、武士階級は正当な祿扶持の程度を逸脱し、権力をふりかざして民衆をおさえつける背徳的なふるまいが多かったために、このような民衆の隷属状態の上になりたっていた武士階級によって会津藩政が行われてきたという抑圧された不満が、私が目撃したような小作争議に起因する暴動(一揆)をひきおこしたのだといえよう。私はこの国の医師たちから、会津侯がかずかずの暴動の知らせを耳にして痛ましいほど悲しまれ、会津の役人はみなそれを過去のこの国の支配体制への痛烈な避難と受け取っている、と聞いた。会津の国で、私は高地民族のたくましい体格をした農民に会えるものと思っていたのだが、そのかわりに見たものは、彼らの領主を冷酷で搾取的な抑圧政治と同一視しているなかば飢餓状態のひよわな農民ばかりであった。
――

農民は、降伏後に江戸に出立する松平容保を一瞥もしなかった、とウィリスは実見を記しています。離心のほどがうかがえます。

戊辰戦争の一次史料は数多くありますが、私はこの戦争を知るうちに「最後の武士の時代」へのほのかな幻想はなくなりました。

bor********さん

2013/7/517:44:06

色々話を聞いたり本を読むとかなりの残虐行為があったみたいですね。

nat********さん

編集あり2013/7/522:00:17

戊辰戦争での残虐性を語るに辺り、そもそもが憎しみがなければわざわざ東北全土巻き込んでまで長州は戦争しなかったはずです。
もう最前線ではその憎しみが発端の合戦から何が行われていたかは想像に固いですよ。
薩摩はまだ江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩とは和解してるまでも、長州は全東北からいまだに毛嫌いされています。
長岡藩みてくださいよ。町屋は全部焼き付くされてます。
その後の長州閥の山縣をみればもうわかるはずです。
長州は断じて受け入れるわけにはいきません

補足

長州に関してはもはや残虐という一括りでまとめられません。
長州に関しては維新後の長州閥すら東北弾圧しているわけですから。
鬼畜ですよ。
同じ日本人とは思えません。よほど縄文遺伝子もつ真の日本人が生粋の弥生人には嫌だったのでしょうね。
長州だけは・・・

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