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仏教徒は、「時」の観念を超えていますか?

aki********さん

2013/7/3114:56:05

仏教徒は、「時」の観念を超えていますか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

exc********さん

2013/8/117:05:43

日蓮正宗信徒のサーベルタイガーです。

先ず時間の概念ですが、私達が時計で認識する時間とは元を正せばイギリスのグリニッジ天文台(或いはフランスの国際度量衡局の原子時計による協定世界時(UTC))の時刻を基準にしていますね。

では更に遡って、その観測基地は何をベースにしているかと言えば地球の自転、太陽の周囲を公転するという『万物の変化』を基準にしているんです。

つまり『時間』とは、それ自体が独立したスタンドアローンな存在ではなく森羅万象(この宇宙に像を結び、形を以て存在する一切のもの)の変化・推移を拠り所にせざるを得ない。

さて、仏法での時間の概念も実はここにリンクしていて、仏法では時間とは『三世一念』と定義しています。

これは一言で言ってしまえば過去・現在・未来と間断なく流れていく時の概念は、今現在一瞬の『この瞬間』に全てを孕んでいるという捉え方です。

なぜ法華経が三世永遠の法と呼ばれるか、この答えも実はここにあり、法華経に於いて命とは一念三千という原理法則が現象世界に具現した姿が一切の生命体であると定義しています。

少し一念三千に触れます。
我々人間は元より犬猫等の動物から昆虫、更に時代を前後して恐竜からアンモナイト、更に未来に生まれるであろう生命体をも含め、地球の時間的前後に存在する惑星で発生するであろう生命体、その全てが一念三千というアーキタイプ(元型・雛型)の法則の体現者という事になりますね。

というのも、それらの生物群はフォルムもボディサイズもバラバラに見えてその実、そこには一貫した共通点かあり、その共通項を抽出して体系化したロジックが一念三千だからです。

具体的に説明すると、先ず生命である以上、我と認識する『自我』、即ち心がなければ成立せず、またその自我が『自分』と『自分以外』とを別つボディラインという境界線、つまりハードである肉体を持ちます。

ナノサイズな生命もギガサイズな生命も、共通しているのは『有限』である事。

そして心を宿した肉体の1ミリ外側はその生命体にとっての『客観世界』が始まっています。

この肉体と心と客観世界、仏法で説く三世間とは究極的にはここに帰結していて、更にこの3つのファクターは不変ではなく一分一秒変化に変化を重ねていく性質を持つ(=十如是)。

その変化のバリエーションは一見、無限に見えてその実、十界という軌道の上をトレースしていく。

この十界、十如、三世間が立体的にコラボして初めて浮き彫りになるのが一念三千ですが、地球上のクロニクルに於いて発生してきた生命体も、過去・未来の惑星に発生するであろう(してきた)生命体も共通してこのルールの上に出現する以上、一念三千とは謂わば『命の最大公約数』みたいなものです。

この骨組みに従い今、我々人間はこの地球という天体の上に『ヒト』という生物種を演じているに過ぎません。

つまり私も質問者さんも閲覧している方も、今この私の駄文を読んでいるこの一瞬に、千年万年どれだけ時間が経過しようと、またその時間の経過により発生するであろう変化相、その因子を既に秘めている事になります。

今この一瞬を『因』とし、未来に於いて発生するであろう『果』。

現象世界の時系列ではそこにタイムラグがありますが、仏法上の観点では果を発生させる現象そのものは既に因の段階で含んでいる事になる、逆に言えば因の中に備わっていない果は理論上、発生し得ません。

例えば青リトマス紙は酸性に触れれば赤くなりますが、これは青リトマスの中に『酸に触れれば赤くなる』というポテンシャルを初めから持つが故、この性質(因)を持たぬならば酸に触れても変色(果)は起き得ません。

この原因と結果の相関関係、一般的にはその発生プロセスにはタイムラグを必要とするも、仏法の観点から言うと因と果が同時この一瞬に存在している事を『因果倶時』といい、三世という無限に流れる『時』の概念も、今この一瞬に自身を成立させている一念三千というメカニズムが起動し変化した姿であると看破する事、言うなれば『無限』『永遠』という概念も『今この一瞬』という概念の中に既に在るという事実を俯瞰(ふかん)する事を『三世一念』といいます。

我が身この命を含む森羅万象、天地万物が時間の経過と共にどれだけ変化しようと、その骨組みであるメカニズム(一念三千)のレールの上に沿って発生する現象であり、逆に言えば時間の拠り所となる『永遠に変化し続ける万物』の大元のメカニズム(一念三千)を把握する事は、無限の過去や未来を今この一瞬と地続きであり永遠を把握する事にもなります。

従って御質問の答えとして、
『時間の観念を超えるか否か』
というより正確には、
『仏法に於いて時間の観念とは、過去から未来へ一直線に機械的に流れるという客観的なそれではなく、無限を現在一瞬の中に見出だすもの』
という事になりますね。

長文失礼しましたm(__)m

質問した人からのコメント

2013/8/4 17:20:45

サーベルタイガーさん、ありがとうございます。

ベストアンサー以外の回答

1〜4件/4件中

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2013/8/303:43:05

仏教における時間の概念は、宗派によって大きく異なります。

部派仏教の時代にも非常に煩瑣な議論がなされていました。

個人的には、上座部・浄土宗・禅宗などは割と共通した考え方をしていると思っています。

絶対現在とか刹那滅などの言葉を使って説明されていますが、要点は、過去や未来は妄想であり、時間は今この瞬間しかないということだと思います。

ods********さん

2013/7/3117:33:13

般若心経の真髄は時間空間を超越しています。

set********さん

2013/7/3115:47:49

全く逆の回答になりますが、仏教は唯一、『過去・現在・未来』に亘る【三世の生命観】を説きます。「現在だけ」は捉え方の違いもあるでしょうが、仏教の中の浄土系ですかね。また、キリスト教・イスラム教では、一切説かれていません。

仏教では「無始無終」を説きますが、キリスト教等又科学の世界では「有始有終』を提言していますね。ここが決定的な違いです。

>「時」の概念を超えて

の「時の概念」が何を以っての概念かは分かりませんが、『因縁果報』という厳然たる道理は事実存在します。何事も、人の生死も、すべては原因(因)があり、様々な縁(宿業)に依って、一つの結果(果)を生ずるということであり、良かれ悪かれ結果そのものの実相を『報(報い)』といいます。故に、人は生れながらにして絶対的な差別(別々=差を以って別とする)を具えて誕生します。国の差、両親の差、身体の差・・・と、たとえ同じ両親家庭内で産まれ育っても、似てはいても同一人格でもなく、又別々の人生を味わいます。また、死も同じです。命あるものはいずれは平等に死を迎えますが、年齢・死の原因等、これまた千差万別です。
臨終の時が、即ち「その人」の今世に於ける一つの果であり、それが因となって来世の誕生時の果となるのですね。そのようにして、永遠に繰り返して、命は続いていくのです。

編集あり2013/8/302:48:08

仏教では過去も未来も存在しません。あるのは現在だけです。
またこ難しい言葉で煙に巻く。
「世尊はいはれた。シャーリプトラよ、現に存在しないというかたちで存在し、そのようには存在しない。(その事実を知らないことを)無明というのである」
無明だからだ無明。
ちなみにこれだって般若経の一種ですけど。

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