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>>傭兵による専属武士団(上の句)といつでも出兵できる兵農分離(下の句)は普...

nat********さん

2013/8/1719:37:51

>>傭兵による専属武士団(上の句)といつでも出兵できる兵農分離(下の句)は普通セットですから。

だからさ、秀吉や浅野、木下や杉原らは信長が用意した足軽長屋という官舎に住み、常に専属傭兵武士団化していたでしょうが。農家は当時最も占める人口密度が多いから兵農というが、根来衆は僧兵、雑賀は猟師や漁師が主だが?
だから、貧農と言われる小作や水呑の家には子7人いても食い扶持なけりゃ土地もないわけで、こういう余剰人員が賊や夜盗になっていたりする。こういう余剰人員を足軽長屋という自衛隊のような官舎に秀吉みたいな者を大量に住まわせ、専属戦闘集団化していったといってるわけで、なんでこれが兵農分離なの?
今どきでいうフリーターや契約社員でしょ。当時の秀吉のような底辺層が自ら食い扶持求めて傭兵やってんだから。
これらがのちの江戸時代の中下層の藩士武士の出自ですよ。
逆に裕福な豪農層はそのまま豪農名主として江戸時代を迎え、逆転現象が起きてるという話ですよ。
わかりますよね?

戦国期、武士が憧れの職業なんてありえない。
中下層の武士に成ったのは、食い扶持も土地もない底辺層の生きて行くための術でしかなかったのが現実。
逆に裕福な有力豪農層は兵役免除などをしてもらうなど武士になんぞ憧れてなんかない。、武士なんぞ中下層は雑多の食い扶持という現実。

補足ですから、足軽の出自の何が妄想なわけ?応仁記にきちんと書いてあるでしょうが賊と。こんな常識レベルの物までいちいちソース出しながら話さなくちゃ行けないのですか?のちの戦国期の武士団に加えられる中下層武士の原型として応仁記には給金払って足軽を使ってたと書いてあるでしょうが。さらには目を離すと強盗を繰り返した。
絵巻も残されてるが?

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bir********さん

2013/8/1721:12:02

織田信長の やったことは、その記録は、
ほとんど、残っていません後世に。
信長ご自慢の最大物・安土城は盗賊に
襲われて略奪されてトンズらするとき
火を つけられて、城も城下町も大火で
廃墟に、なった。この城下町は、
信長の楽座楽市が最も ゆきわたって
施行された規範の町だったが、それも
燃えちゃったんで、全容は不明です。
信長の人生のことを 比較的こまかく
書いている記録だといい第一級史料
と されている信長公記というのは、
元々、そういう公文書記録を書く
信頼性が置ける身分の1つ、である
祐筆が書いたものでは、なく
信長の下級家来・太田牛一が、
たまたま本能寺の変のトバッチリに
あわず信長の死後も生きのびたが、
豊臣の世では、秀吉が怖いので
言いたいことも書きたいことも自由に
出来ず、次の徳川の世に、なっても
生きていた太田は、死ぬ間際に、
信長のことを思い出しながら書いて
いったのが信長公記で、大昔のことを
思い出しながら書いていたものです。
覚えていないことや忘れていることは、
想像で書いているものでしょう。

佐久間信盛が知行として佐久間を追放後は
信長の直轄領になった近江の領土にあった、
安治村の掟の古文書が現存しており、
これは、織田の農村統治の実態を知る
指標となるので、抜粋し書き下してみます。

安治村・掟で、陣夫役の決り、として
支配者の要請に応じて村で9名の
陣夫役を決めておくこと。その役は、
村の集団共同農作業の支障が出ない
範囲で9名を選出し回り持ち交替で
やっても、かまわない。
なお、この9名が駆り出される合戦は、
同村を含む知行の防衛のための戦い、に
限定される。ほかの地域への遠征の
場合は、9名の3分の1、すなわち3名の
陣夫役を支配者側は要求するので
村は、それに応じる、こと。
(陣夫役は、戦闘に必要な土木作業、
運輸作業、炊き出し、その他、雑用に
従事するもの。)

尾張の鍛冶屋の息子、加藤清正や
尾張の桶屋の息子、福島正則は、
最初は、こうした陣夫役で初めて
戦場で、はたらいたかもしれないが、
その彼ら に戦闘の才能を見出し
召抱えた秀吉の事例は、
非常に稀有な例で、こうしたことは
各々の武将の裁量に、より、
一般化したものでは、なかったと
思われます。

質問した人からのコメント

2013/8/24 11:25:59

子飼い以外にも蜂須賀黒田や生駒などいくらでも成り上がりはいます。そもそもが徳川、秀吉なんて正規の武家でもなんでもないでしょいに。 幕末、将軍慶喜が幕府軍や側近に火消の新門や清水ジロチョウや弾さえ問をおいていたり、長州の奇兵隊見ても近代でもこれなのに、なぜ戦国には歴然としてたと考える方が不自然でしょ。そもそもが大名層が下克上の成り上がりだらけなのに

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hjx********さん

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編集あり2013/8/1722:01:23

>余剰人員を足軽長屋という自衛隊のような官舎に秀吉みたいな者を大量に住まわせ、専属戦闘集団化していったといってるわけで

だからさ、それは史実なの?どの一次史料に書いているの?
あなたが「史実」と思っている事は、何という書物から得たの?
小和田先生は信長公記という第一級史料に依り、城下町の弓衆などの(底辺では無く、エリート中心)は、織田軍の一部(1割未満・数%)だけ、と近年に書いているけどね。

また、藤木久志先生は、数多くの一次史料である村の古文書と、信頼度が高いと思われる二次史料「雑兵物語」から、戦国の傭兵とは惣村から出兵する農民兵、と結論づけている。

君の読んだ小説やエッセーの著作者はちゃんと「史料批判」をしているかい。?史料批判とは、古文書などの真偽を確かめる作業。戦国ネタの多くの作家はしていません。

繰り返すが、「学術」は、信頼される史料を根拠に説を述べる。君の小説の独自の感想文は「学術」に達していない。

☆なお、今後も、史料・著作・提唱者氏名が書かれないようなら、返答、お断りいたします。「学術」からほど遠いので。


出た。ついに「史料」が。応仁記。

でも論点は、織田家の軍制ですよね。

Wikiによると、軍記物語(小説)でたぶん二次史料。
つまり、単独では論拠になり得ない二流・三流の史料。というか小説。
「信長公記」や「雑兵物語」とは肩を並べられません。
やっぱり「史料批判」とか、一次史料って何かわかってなかったんですねえ。しかも、絵巻つき。
そもそも、応仁記は信長の話ではないし。
あなたの応仁記よりも、藤木先生の雑兵物語や小和田先生の信長公記の方が「学術」の世界でははるかに説得力があるということです。
「目を離すと強盗」は、藤木先生の主張「略奪目的」と一致しますが。

織田家の史料を出してね。京都の小説では無くて。

繰り返しますが、論点は、織田家の軍制でしたよね。

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